創業者の天才的なひらめきを社員が素早く形にすることで成長してきたジャパネットたかた。最大の試練はカリスマ、高田明氏の引退だ。偉大な先代からどのように事業を受け継いでいくのか。
後編では、父・明氏との衝突から社長を引き継ぐまでをひもとく。父は長嶋茂雄タイプ、自分は野村克也タイプと語る旭人氏。データに基づく仮説と検証でさらなる成長を目論む姿を描く。
(前編から続く)

父とぶつかるのは生まれて初めてのことだった。父は仕事優先で、子供のしつけと教育は母任せ。旭人にとって父は甘やかしてくれる存在で、叱られたことがなかった。
旭人は将来、社長になる以上、自分で「こうだ」と思ったことは積極的にやってみようと考えていた。だから父から「こうしなさい」と教えられたり、「私の経験上、それはない」と指摘されたりしても、自分自身で仮説を立て、実行し、検証するまで納得しない。
「父にしてみれば、せっかくアドバイスしているのに、20代半ばの若造に『やってみないと分からない』と返されたら、かわいいと思えないですよね」。旭人はかつての自分を振り返り、苦笑する。
母が緩衝材になってくれた
そんなとき間に入り、2人の緩衝材となってくれたのが、母の恵子だ。
恵子は父とともにジャパネットたかたを成長させてきた人物で、その頃、副社長を務めていた。「母は父のことも、僕のことも理解して、うまい具合にバランスを取ってくれた。事業承継がスムーズにいったのも、母の存在が大きかったと思う」。
このときも、2人の溝が深くならないようにと考えた母が「(父の明から)一度離れたところに1人で行って、自分の力を証明したらいい」と旭人に助言。旭人は2006年4月、福岡市にあったコールセンターに責任者として赴任し、立て直しに携わる。27歳だった。
筆者はこの頃、旭人に取材したが、「まだ何も実績を出していないから」と写真撮影を断られた。「高田明の息子だから」という理由で、誌面で大きく顔写真入りで扱われることをよしとしなかったのだろう。
「お父さんのようにテレビに出ないの?」。入社してからよくこう聞かれたという。「自分は表に出るタイプではない」と自覚していたから、その考えは毛頭なかった。
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