戦後の食糧難の時代、甘味を提供しようと雪深い当時の新潟県岩塚村で生まれた岩塚製菓は2017年に創業70周年を迎えた。米菓一筋で安定的に成長してきた同社。偶然のヒットが重なったというが、そのベースには地道な創意工夫の歴史があった。
槇社長は、2代目である先代社長の3男だそうですね。子供の頃は家業を支えることをイメージされていましたか。
槇:私はこの辺で言う“かすおじ”、末っ子ですから、物心付いた頃から自分は家業とは関係ないと思っていました。大学を出て神戸にあったダイエーに就職してからは、ずっとそこにいるつもりでした。ちょうどスーパーが出始めの頃で、勢いがありましたし、入社2年くらいで役職にも就きました。
ところがその2年目に、親父が大阪にあったダイエーの本部を訪ねてきたんです。その頃当社は、タイでの事業で失敗していたんです。まだ日本人もそれほどタイへ行っていない時期ですが、外務省から依頼を受けてタイで生産したあられを輸入しました。ところが、油焼けしていると全部返品になったと言うのです。それで会社の存続が危なくなって、新たに人を雇うわけにもいかないから戻ってこいと言われまして、それで長岡へ帰ってきたんですよ。
まき・はるお
1951年に2人の創業者のうちの槇計作氏の3男として新潟県長岡市に生まれる。富山大学卒業後、74年にダイエーに入社するも、父親に帰ってくるよう言われ、76年に岩塚製菓に入社。取締役営業本部長、専務取締役製造本部長、専務取締役経理部長、専務取締役管理部長などを経て、1998年から現職。全国米菓工業組合理事長、全日本菓子協会副会長なども兼ねる。(写真:増井友和)
槇:その頃にまず取り組んだのが「味しらべ」というおせんべいです。味しらべは、甘じょっぱい味です。
それまではおせんべいと言えば、塩味か醤油味しかなかったのですが、長野かどこかにその地方にだけある甘じょっぱいお菓子のことを知って、言われてみればこういう味のおせんべいがないなと商品化したところ、偶然ヒットしたのです。ニーズに合わせたわけではないのですが不思議です。ただヒットすると、他社にまねられます。多いときには38社からよく似たものが出ました。
自問自答し2年の試行錯誤の後、ヒット
「味しらべ」は偶然のヒットと言われましたが、偶然のヒットを繰り返していくのは現実的ではないですよね。
槇:偶然のヒットと言っても、最初から大ヒットしたというわけではないのです。開発当初は、大きな袋にばさっと砂糖の付いたせんべいを入れていたのですが、なかなか思うように売れませんでした。おいしいのになぜ売れないんだろうと何度も自問自答して2年くらい試行錯誤していました。パッケージデザインも10回以上変えています。
槇:そうやっているうちに、当時の問屋さんから、1個ずつ個別包装をするよう提案を受けました。
大袋にそのまま、たくさんのおせんべいが入っていると、時間とともにまぶしてある砂糖で袋の中が見た目に濁ってきます。個包装にすると、大袋に入っていたときより見映えが良くなるんです。ですが、当時の製造ラインで個包装をやろうとするなど、手間が掛かってとんでもないことでした。包装に使うフィルムも過剰包装で無駄だという感覚がありました。ところが個別包装にしたら爆発的に売れて、会社に勢いが出てきました。
この頃に、製造改革にも取り組んでいます。それまでは売れ行きに関係なく、工場の稼働率を上げるために作っていたんです。設備を遊ばせないという発想です。ですが、もうそういうやり方ではダメなのではないかと気付き、在庫をゼロに近い形にしたことが、その後の成長につながりました。高度経済成長期には、どの会社でもとにかく工場の稼働率を上げることが目標のようになっていましたが、売れた分だけ作るというトータルな経営効率の向上が大切です。
それから、適量の商品も作るようになりました。以前は、おかきやおせんべいは、1袋250円や300円して、量がたくさん入っていました。ですが今ではそれほどたくさんの量が必要な時代ではないので、150円や170円で売られるような商品を始めました。そうしたら、これも爆発的に売れ始めたのです。
業界初の商品で飛躍
岩塚製菓は米菓一筋で家内工業から大手製菓企業に成長しました。飛躍するきっかけになった商品があったのでしょうか。
岩塚製菓の飛躍につながった「お子様せんべい」。1966年発売。それまでになかった軽い味と食感
槇:当社は見よう見まねで、家内工業で米菓作りを始めたのですが、社名が全国に知られるようになったのは、「お子様せんべい」という商品を出したときですね。
「お子様せんべい」は、白くて柔らかいおせんべいですが、それまではこのようなおせんべいはありませんでした。実はこのおせんべいは、試作製造過程で、予定より水に長く浸けられたお米でたまたま理想の生地を作れ、それを焼き上げてできた製品です。今は乳幼児を対象にした商品になっていますが、当時は小学生や中学生のおやつとして広まりました。これもまた他社さんにまねられましたが……。
熱心なお客様から指摘されカイゼンも
槇:「大袖振豆もち」も当社にとってはエポックメーキングな商品でした。これは、水切り製法と言って、包丁に水を付けながら柔らかい餅をスライスして作るのですが、その工程をいち早く自動化したのです。これによって全国に出荷できるようになりましたし、品質の良いものができるようになりました。
水切り製法は、豆もちをおかきにするための自動化を考えていたんですね。
槇:そうです。ちなみに大袖振大豆の産地は、北海道十勝の音更です。今はもう、そこでしか採れません。豆もちを自動化して大量におかきにする技術もそうですが、豆もちの大豆が大粒で甘みが強く、それがもちとフィットしたこともヒットの大きな要因です。
ただ、大袖振大豆は他の大豆と違って背丈の低いところになるので、収穫が機械化できず、また単位面積当たりの収穫量も低いので、輸入大豆の5倍くらいの価格です。ですが、当社では40年近く、ずっとこの大豆を使って作っています。この大豆を作ってくれている農家の方が毎年、当社の工場に見学に来られますが、もしうちがなかったら、もうこの品種は日本からなくなっていたでしょうと言われます。
実はこの商品については、以前、品質について熱心なお客様から指摘されたことがあります。このおかきを作る際、柔らかい餅を木枠に押し付ける工程があるのですが、その押し方が安定していないと、焼き上がりに変化が出てきます。その変化を敏感に感じ取られた方が、1週間ごとに2カ月分くらいの商品をわざわざ送ってきてくれたんです。我々もそれを見て、製造現場で調べて、微妙なのですがおかしいところが分かりました。それはすぐに直しました。お客様は正直だなと思いました。
岩塚世界では、より素早い商品開発を目指すため、研究開発機能とマーケティング機能を集約したR&D・Mセンターを2006年に開設した
他にも、均一に大きな黒豆を埋め込み、それが落ちてしまわない技術なども工夫してきました。2006年には、夢だったR&D・Mセンターを開設しました。研究開発は命であり、心臓ですから、いい環境のところできちんと製品開発をしたいと思ってきました。
(後編に続く。後編の掲載は9月15日の予定です。構成:片瀬京子、編集:日経トップリーダー)
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