槇社長は、2代目である先代社長の3男だそうですね。子供の頃は家業を支えることをイメージされていましたか。
槇:私はこの辺で言う“かすおじ”、末っ子ですから、物心付いた頃から自分は家業とは関係ないと思っていました。大学を出て神戸にあったダイエーに就職してからは、ずっとそこにいるつもりでした。ちょうどスーパーが出始めの頃で、勢いがありましたし、入社2年くらいで役職にも就きました。
ところがその2年目に、親父が大阪にあったダイエーの本部を訪ねてきたんです。その頃当社は、タイでの事業で失敗していたんです。まだ日本人もそれほどタイへ行っていない時期ですが、外務省から依頼を受けてタイで生産したあられを輸入しました。ところが、油焼けしていると全部返品になったと言うのです。それで会社の存続が危なくなって、新たに人を雇うわけにもいかないから戻ってこいと言われまして、それで長岡へ帰ってきたんですよ。

1951年に2人の創業者のうちの槇計作氏の3男として新潟県長岡市に生まれる。富山大学卒業後、74年にダイエーに入社するも、父親に帰ってくるよう言われ、76年に岩塚製菓に入社。取締役営業本部長、専務取締役製造本部長、専務取締役経理部長、専務取締役管理部長などを経て、1998年から現職。全国米菓工業組合理事長、全日本菓子協会副会長なども兼ねる。(写真:増井友和)
槇:その頃にまず取り組んだのが「味しらべ」というおせんべいです。味しらべは、甘じょっぱい味です。
それまではおせんべいと言えば、塩味か醤油味しかなかったのですが、長野かどこかにその地方にだけある甘じょっぱいお菓子のことを知って、言われてみればこういう味のおせんべいがないなと商品化したところ、偶然ヒットしたのです。ニーズに合わせたわけではないのですが不思議です。ただヒットすると、他社にまねられます。多いときには38社からよく似たものが出ました。
自問自答し2年の試行錯誤の後、ヒット
「味しらべ」は偶然のヒットと言われましたが、偶然のヒットを繰り返していくのは現実的ではないですよね。
槇:偶然のヒットと言っても、最初から大ヒットしたというわけではないのです。開発当初は、大きな袋にばさっと砂糖の付いたせんべいを入れていたのですが、なかなか思うように売れませんでした。おいしいのになぜ売れないんだろうと何度も自問自答して2年くらい試行錯誤していました。パッケージデザインも10回以上変えています。
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