前回、「東京ミッドタウン日比谷」にメガネ店や理容店、居酒屋など8業種を複合させた「HIBIYA CENTRAL MARKET(ヒビヤ セントラル マーケット)」を開業した老舗書店、有隣堂(横浜市)の松信裕社長に、その経緯をつまびらかにしてもらった。後編では、開業後の運営状況、さらにその次、書店を続けていくには何が必要なのか聞いた。前編は
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ヒビヤ セントラル マーケットの立ち上がりはいかがですか。
松信:絶好調です。初日の売り上げは開店景気もあって400万円ほどになりました。その後も毎日、売り上げ目標をクリアしています。
私は飲食店の利益率が高いことは知ってはいたのですが、改めて目の当たりにすると、やはりすごいなと思います。それから、なぜ婦人服を売る店が多くあるのかも分かりました。やはり利益率が高いんですね。ファッションの販売に携わっている人たちは「松信さん、ファッションってそんなに甘くないよ」とおっしゃる。確かに甘くはないのだろうと思います。
ですが売れれば大きい。ファッションに限ったことではありませんが、時代やお客様の感性なり気分にフィットする商品と、それを好ましいと思うお客様が出合えば、売れるのです。じゃあ、有隣堂は婦人服を分かっているのかと言われたら、全然分かっていない。そういう部分を補うためにも南さんにディレクションを任せたんです。
本を売るためにどんな付加価値が必要か考える
課題も出てきたのではないですか。
松信:雑貨も売れていますが、雑貨店は、本来どれくらいの売り上げ規模が必要で、どれくらい利益が取れれば成功なのかが、雑貨だけの専門店を経営したことがない私たちには分からないんです。しばらくは自分たちの基準でやっていくしかないと思っています。
飲食店、理容店の運営に目を向けると、東京ミッドタウン日比谷の上層部にあるオフィスフロアへの入居はこれからですから、今後も大いに期待できます。
書店には、書籍や雑誌だけでない付加価値、“出っ張り”が必要という。ヒビヤ セントラル マーケットには、写真の居酒屋も設置している。有隣堂では、次の店づくりでも、出っ張りを検討する
ほかに人材面での課題もあります。理容店の店員、居酒屋の店員も有隣堂の契約社員です。書店とは職能が全く違う人材を生かしていく必要があります。ですが、給与基準も就業規則も従来とは異なります。これまでは「おーい、こっちが大変だから手伝ってくれ」で済んでいたのが、理容店の社員にブティックを手伝えというわけにはいかないでしょう。ここは思案のしどころです。
一方で異業種だからこそ、店舗間で生じるカルチャーショックが新しい思考や可能性を生み出して、それぞれの店舗の活性化にもつながっていくのではないかと期待しています。
今後も、ヒビヤ セントラル マーケットのような業態を増やしていくのでしょうか。
松信:分からない、本当に分からない。手探りでやっていくしかないと思っています。ただ、その中心には本がある。本を売りたいがためにどういった付加価値が必要なのか、考えていきたい。まだ発表はできませんが、次の新しいチャレンジも考えています。
松信:付加価値についてもう少し語ると、例えば女性のワンピースに飾り付けるレースをワンピースの付加価値だとすれば、そのレース一枚一枚に本物の価値がなくてはならない。あるいは金平糖に例えると、表面の凸凹の凸のどれ一つとっても面白くなっていくものをつくりたい。
じゃあ、その出っ張りは何なのか。今回は理容店やメガネ店でしたが、次はもしかしたら本とのシナジーが図られたペットショップかもしれないし、靴店かもしれません。例えばの話ですが……。
時代対応には社内をかき回す新しい人材も必要
ところで有隣堂は、ホームページのブログの頻繁な更新や情報誌『有鄰(ゆうりん)』の発行など、情報発信に関して積極的な印象があります。特別な方針などがあるのでしょうか。
松信:特別なルールがあるというより、単に店舗で「いらっしゃい」と待っているだけではダメだという思いを誰もが持っているということです。
旧店舗(大正時代の有隣堂の前身・第四有隣堂)内にあった有隣食堂(カフェ)。大正時代からの挑戦するDNAは今も同社に受け継がれている。さらに松信氏は、今後も多角化・複合化の挑戦を続けるには“かき回す”人材も必要という
そうは言っても、ブログの更新などはひと頃より減っていると思います。前回、775人の社員をほぼ半減させたという話をしましたが、外商の営業担当者は増やしています。減ったのは店舗の社員です。ですから絶対数から言えば発信力は落ちていると思います。アルバイトから契約社員、契約社員から正社員への登用などは実施してきましたが、新入社員はあまり採用してきませんでした。
来年度は新卒も採ります。やはり、時代が大きく変わるときには社内をかき回す新しい存在が必要です。社員も年を重ねていくと、どうしても保守的になりがちですから。
創業家に生まれた松信さんは、入社前は朝日新聞社に勤めていらしたそうですが、その頃はどのような仕事をしていたのですか。
松信:楽しかったですね。だから、この会社に来たくなかった(笑)。
朝日新聞社には27年半いました。最初は九州にある西部本社に配属になりました。九州に配属されると、大抵そこでキャリアが終わるんですが、私は11年目に東京に転勤になりました。史上2人目と聞いています。
東京では、宣伝部に籍を置くことになりました。バブルの時期でもあり、ちょうど本社が有楽町から築地に移る時期でした。鉛の活字や版を扱っていた活版部や紙型鉛版部が、部ごとなくなった時期でもありました。すると私にたくさんの部下ができました。全員年上です。私の仕事は、この方々と一緒に新しい仕事を開拓していくことでした。
宣伝部では、多くの催し物も手掛けました。スポンサーを募って、イベントを開催するのです。朝日新聞社主催の「全国レディーステニス大会」は、私が企画したんです。今も続いているのはうれしいですね。当時は企画を立てて話を持っていけば、すぐにスポンサーが付く時代でした。
紙で読んだものが教養になる
松信:宣伝部の次は販売事業部に異動しました。1988年のソウルオリンピックのときには単身2カ月ソウルへ行って衛星中継の準備をし、観光客や在留邦人に新聞を売るという仕事もありました。国際営業部長になったときには、ロンドンへ行けるなと思ったのですが、違いました。「朝日イブニングニュース」を国内で売るのが仕事でした。その後も様々な部署で多くの経験をさせていただきました。
そしてまた宣伝部に戻って部長になったと思ったら、当時有隣堂の社長だった父が脳溢血で倒れた。それで94年に朝日新聞社を退社し有隣堂の経営に加わることになったんです。
実はそれに先立って、87年からは朝日新聞社に在籍したまま有隣堂の非常勤役員になっていましたが、完全に戻る気はさらさらなくて、うまくいけば朝日新聞社の子会社の役員にはなれるかな、なんてことを考えていたくらいです。
有隣堂は、企業理念に、文化、教育に関する商品の販売を通じて社会に貢献するとうたっています。社会貢献に対する思いがあれば教えてください。
松信:今感じているのは、日本の若い人たちの一般教養の力が伸び悩んでいるのではないか、ということです。今後は、小学校でも英語やプログラミングを教えるそうですが、確かに、考える力を鍛えるにはそういった教育も必要なのだと思いますが、それに加えて、教養を高めるにはやはり読書が基本です。
当社は内田洋行の販売代理店も務めているのですが、その内田洋行の研修旅行でエストニアへ行ったときに、プログラミングを学んでいる幼児教育の現場を目の当たりにしました。ベトナムの中学校では、英語でシェイクスピアの授業をしていたんです。ものすごくレベルが高い。彼らには、まだまだこれから『坂の上の雲』があるということでしょう。
一方日本では、そのような雲を追うことが少なくなりました。勤勉さも失われつつあるように思います。海外留学する学生の数も減っていると聞きます。文字はスマホなどで読まれることが多くなりましたが、やはり紙の本を読んでほしいのです。本で読んだことが最後まで頭にこびりつく教養になっていくと思います。ですから、紙の本は売り続けたいですし、そのためにはあらゆることに手を出していいのではないか、と思っているのです。
松信 裕(まつのぶ・ひろし)
株式会社有隣堂代表取締役社長。1944年横浜市生まれ。67年慶應義塾大学経済学部卒業後、朝日新聞社入社。同社在職中の87年に有隣堂の非常勤取締役に就任。94年、朝日新聞社を退社し、有隣堂の常勤取締役に就任。常務取締役、専務取締役を経て、99年から現職。山手英学院理事、神奈川県教科書販売取締役、日本出版販売相談役、文字・活字文化推進機構 評議員、出版文化産業振興財団理事、日本専門店協会副会長等を兼ねる(写真:山本祐之)
(この項終わり。構成:片瀬京子、編集:日経BP総研 中堅・中小企業ラボ)
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