1909(明治42)年創業の老舗書店、有隣堂(横浜市)が、3月開業の「東京ミッドタウン日比谷」にメガネ店や理容店、居酒屋など8業種(9店舗)を複合させた「HIBIYA CENTRAL MARKET(ヒビヤ セントラル マーケット)」を開業し注目されている。創業時から、経営の多角化や店舗の複合化を進めてきた同社だが、出版不況が叫ばれる中、今後、どのような事業を展開し、店舗をつくっていくのか。6代目社長の松信裕氏に聞いた。

今でこそ書店で文具も買え、カフェが併設されている店舗も珍しくなくなりました。有隣堂はかなり以前から事業の多角化や店舗の複合化に取り組んでいますね。

松信:有隣堂の創業地は横浜の伊勢佐木町で、今も同じ場所に本店があります。既に大正期にカフェもあって、そこにあったステージでイベントも開催していたそうです。創業者である祖父が、新しもの好きだったんですね。本店が1959年に今の建物になったときにもレストランやギャラリーを設けていて、かなりはやっていました。

昔から多彩な試みに取り組んできた

70年代には、スポーツ用品を売っていたこともあたったとか。

 74年に開業した横浜・馬車道の「ユーリンファボリ」には、テーマ性を持たせて書籍や文具、雑貨や画材、スポーツ用品まで並べていました。ライフスタイルを提案する店舗だったんです。カフェやギャラリー、音楽スタジオも併設していました。レストランなどの運営ノウハウは、その時々で途切れたこともありましたが、創業以来の進取の精神は受け継がれていると思います。

 いつの時代も、業界に先駆けた試みに取り組んでいたんです。そういったことがステップとなって、新宿の小田急百貨店内にある、書店と雑貨店、カフェを複合した店舗「STORY STORY」やヒビヤ セントラル マーケットにつながっています。ですから、今さらカフェ併設の本屋だと威張るようなことでもないと思っています。

<span class="fontBold">松信 裕(まつのぶ・ひろし)</span> 株式会社有隣堂代表取締役社長。1944年横浜市生まれ。67年慶應義塾大学経済学部卒業後、朝日新聞社入社。同社在職中の87年に有隣堂の非常勤取締役に就任。94年、朝日新聞社退社、有隣堂の常勤取締役に就任。常務取締役、専務取締役を経て、99年から現職。山手英学院理事、神奈川県教科書販売取締役、日本出版販売相談役、文字・活字文化推進機構 評議員、出版文化産業振興財団理事、日本専門店協会副会長等を兼ねる(写真:山本祐之)
松信 裕(まつのぶ・ひろし) 株式会社有隣堂代表取締役社長。1944年横浜市生まれ。67年慶應義塾大学経済学部卒業後、朝日新聞社入社。同社在職中の87年に有隣堂の非常勤取締役に就任。94年、朝日新聞社退社、有隣堂の常勤取締役に就任。常務取締役、専務取締役を経て、99年から現職。山手英学院理事、神奈川県教科書販売取締役、日本出版販売相談役、文字・活字文化推進機構 評議員、出版文化産業振興財団理事、日本専門店協会副会長等を兼ねる(写真:山本祐之)

 一方で、当社で始まった事業の多角化は自然発生的だったと思います。その理由は11人きょうだいに行き着くと私は思っています。創業者には子供が11人いました。一番上と一番下が女で、あとは9人が男です。

 64年に横浜駅西口に初めて支店を出すまでは、伊勢佐木町に1店舗しかありませんでした。その土地も、戦後、占領軍に接収され、近くの野毛という場所でレジが2台しかない仮店舗経営をしていたこともあります。こうなると、きょうだい皆で働ける場所がありません。それで創業者は、店舗には居場所がないから外で稼いでこいと言ったのでしょう。それが当社の外商の始まりだと私は考えています。

 当時、マルタンという会社がありました。京浜工業地帯にある大手企業の工場を顧客として、文具や機械を納めていた会社です。当社もそういう商売をやりたかったのだけれど、あまりにマルタンが強すぎて、入り込む余地がありませんでした。そこで官庁に目を向けました。今、いくらか官庁と仕事をできているのはそういったいきさつもあったんです。後にそのマルタンは当社の傘下に入っています。

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