父から、ああしろ、こうしろと指導されたことはほとんどありません。2人で店を回ったこともありましたが、「店のどういうところを見ればいい?」と聞いても教えてくれない。「おまえが感じるまま。それが正しいんだ」と。

 ただ、病気になってから亡くなるまでの1年間というのは、父と一緒にいる時間が人生の中で一番長かった。今振り返っても、とても濃密な1年間でした。そこでいろいろな言葉も受けました。

 実はニューヨークに発つ3日前まで、父は私と一緒に香港とタイに出張していたんです。アジアの店の多くは、フランチャイズチェーンの加盟店です。父は現地のオーナー一人ひとりに、私を紹介しました。

 「若いし、経験も浅いけれども、一生懸命やらせるので、なんとかよろしくお願いします」

大戸屋を率いた故・三森久実氏(2014年4月、鈴木愛子撮影)
大戸屋を率いた故・三森久実氏(2014年4月、鈴木愛子撮影)

 アジアの次は、米国。米国の次はヨーロッパと、全世界に大戸屋の看板を掲げることを、父は夢見ていた。もっと生きて頑張ってほしかったが、海外事業の基盤はつくって、逝ったと思う。

 ただ、ニューヨーク出張はやはり体に応えたのか、帰ってきたときには、父は別人のようになっていました。最後の最後まで、仕事に向かう背中を見せてくれたことに感謝しています。

株式譲渡など事業承継の準備はどこまで進んでいたのですか。

智仁:皆無です。本人も、まさか57歳の若さで死ぬと思っていなかったので、父の持ち株は手つかずの状態でした。そのため、病気発覚後、「株式相続の準備をしてほしい」と頼まれました。

 父が保有していた大戸屋の株(約19%)を、母と私が相続するとなると、相続税は莫大な金額になります。経営を揺るがさないスキームをどうつくるかというのが一番の問題でした。大戸屋のメーンバンクと相談しながら、遺言信託のパッケージを使って準備を進めました。

 そうして15年7月27日、父は逝去します。私の周りで事態が動き始めたのは、父が亡くなってすぐのことでした。

「おまえには無理だ」。社長との関係が悪化

 27日は月曜で、通夜、告別式は週末の31日、8月1日に、父の故郷、山梨県で執り行いました。そして週が明けた3日、社長室を訪ね、窪田社長に葬儀参列のお礼を伝えました。すると、その場で「10月1日から香港に赴任してくれ」と言われたのです。

 私はチャンスだと思いました。父は世を去った。いったんここで気持ちを切り替える意味でも、いい機会だと思い、「分かりました」と香港赴任を内諾しました。

 父が亡くなる1カ月前、14年の株主総会で私は取締役に選任していただきました。肩書は常務取締役海外事業本部長で、アジア全体を統括する役職です。もちろん、この若さで常務になれたのは父の後押しがあったから。死を前に私のために後継者のレールを敷いてくれたのです。

 ただ、前職の海外事業本部長が仕事の引き継ぎを一切してくれなかった。さすがにそれはおかしいのではないかと思っていたので、8月下旬、窪田社長と前任者と会食しているときに、そのことを持ち出すと口論になったのです。ここで窪田社長に言われたことは、鮮明に覚えています。

「(常務取締役海外事業本部長の任は)おまえには無理だ。反抗するなら、明日から会社に来なくていい――」

【編集部注】 窪田社長にこのときの発言の真意をただすと、会社側から「そのように発言した事実はない」という回答があった

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