6月28日、定食チェーン、大戸屋ホールディングスの株主総会が開催される。2015年7月に創業者の三森久実氏が他界。その直後から勃発した創業家と経営陣の内紛に終止符は打たれるのか。
中小企業経営者のための月刊誌「日経トップリーダー」では、16年夏、久実氏の長男、三森智仁氏にインタビューを行い、智仁氏の視点から社内で何が起きていたのかを語ってもらった。このインタビュー記事は、大戸屋コンプライアンス第三者委員会の報告書にも引用されたものだ。同社の株主総会を前に、内紛の発端と経緯を振り返る。
インタビューでは、久実氏が肺がんが発覚してからも海外出張に奔走したことや、病気の発覚から1年後に亡くなるまでの、父と子の実際のやり取りが克明に語られている。
(聞き手・構成/日経トップリーダー編集長 北方雅人)
三森前会長が57歳の若さで亡くなったのは突然で驚きました。今回の騒動にも絡んでくると思うので、三森さんの死の前後のことから、お話を伺ってもいいですか。
智仁:ええ、いいですよ。父の病気が発覚したのは2014年7月。ニューヨークに出張していたのですが、体調が悪いということで帰国し、すぐに病院で検査を受けました。
当時、私は埼玉県内の大戸屋で店長をしていました。母から電話で事情を聞かされ、父に連絡を取ろうと思っていたところ、ちょうど父から電話が入ったのです。
「まだ検査結果は出ていないけど、おそらく肺がんだな。智仁、本部に戻ってきてくれ。いろいろ頼みたいことがある」
8月上旬、母と私と窪田社長の3人が都内の病院に呼ばれました。窪田社長は大戸屋のトップであると同時に、父のいとこでもありますからね。父の兄の三森教雄はその病院で医師をしており、おじも同席しました。
主治医は、父と私たちの前で「余命は1カ月です」と告げました。病名は小細胞肺がん。進行が速くて、父の場合、手術ができない状態になっていた。薬が効かなければ1カ月で命を落とすという。
死の直前まで米国出張。母も私も止めたが「行ってくる」
幸いにも抗がん剤が効き、父は1年生きました。その間、身内にも会社の人間にも、弱音は一切吐かなかった。父は、国内での店舗展開の傍ら、和食を世界に広めたいとタイを皮切りに海外市場を先頭に立って開拓し、晩年は米国事業に心血を注いでいました。
亡くなる2カ月前までは、1人でニューヨーク出張をこなしていたんです。母も私も止めたんですが、「行ってくる」と。
大戸屋は、女性も入りやすい定食店として人気を集める
体力的にはかなりつらかったはずです。なぜ、そこまでして米国に行ったのでしょうか。
智仁:米国事業は1号店、2号店と軌道に乗り、当時は「天婦羅まつ井」という新業態のオープンを控えていました。父は料理も内外装も、自分の目で確かめないと気が済まない人。事業と、自分の命をてんびんにかけ、迷うことなく事業を選んだ。志より勝るものはなかったのでしょう。
実は、私が会社を継ぎたいと心に決めたのも、米国事業に立ち向かおうとする父の姿を見たのがきっかけでした。私は思春期の頃に、大戸屋の社長の息子だということでいじめを受けた経験があり、継ぐ気はなかったし、父のほうも「継げ」とは一切言わなかった。
それが21歳の大学4年の秋、ニューヨークに、父と男2人で初めて旅行したんです。私は学生時代最後の旅行として、父は米国出店前の視察を兼ねていました。日本食レストランを1日4、5軒は回ったでしょうか。その中で、ある店で提供しているしょうが焼きがニューヨーカーに受けていると聞き、食べにいった。
食後、店の外でたばこを2人で吸っていたときのこと。父は空を見上げながら、「勝てるな」とぽつりと言ったんです。その姿が、とてもかっこよく見えましてね。絶対に父の後を継ごうと誓ったんです。
後継者としての教育はたくさん受けてきたのですか。
智仁:どうでしょう。私は、大学(中央大学法学部)卒業後、三菱UFJ信託銀行で2年働き、大戸屋に入社しました。
父から、ああしろ、こうしろと指導されたことはほとんどありません。2人で店を回ったこともありましたが、「店のどういうところを見ればいい?」と聞いても教えてくれない。「おまえが感じるまま。それが正しいんだ」と。
ただ、病気になってから亡くなるまでの1年間というのは、父と一緒にいる時間が人生の中で一番長かった。今振り返っても、とても濃密な1年間でした。そこでいろいろな言葉も受けました。
実はニューヨークに発つ3日前まで、父は私と一緒に香港とタイに出張していたんです。アジアの店の多くは、フランチャイズチェーンの加盟店です。父は現地のオーナー一人ひとりに、私を紹介しました。
「若いし、経験も浅いけれども、一生懸命やらせるので、なんとかよろしくお願いします」
大戸屋を率いた故・三森久実氏(2014年4月、鈴木愛子撮影)
アジアの次は、米国。米国の次はヨーロッパと、全世界に大戸屋の看板を掲げることを、父は夢見ていた。もっと生きて頑張ってほしかったが、海外事業の基盤はつくって、逝ったと思う。
ただ、ニューヨーク出張はやはり体に応えたのか、帰ってきたときには、父は別人のようになっていました。最後の最後まで、仕事に向かう背中を見せてくれたことに感謝しています。
株式譲渡など事業承継の準備はどこまで進んでいたのですか。
智仁:皆無です。本人も、まさか57歳の若さで死ぬと思っていなかったので、父の持ち株は手つかずの状態でした。そのため、病気発覚後、「株式相続の準備をしてほしい」と頼まれました。
父が保有していた大戸屋の株(約19%)を、母と私が相続するとなると、相続税は莫大な金額になります。経営を揺るがさないスキームをどうつくるかというのが一番の問題でした。大戸屋のメーンバンクと相談しながら、遺言信託のパッケージを使って準備を進めました。
そうして15年7月27日、父は逝去します。私の周りで事態が動き始めたのは、父が亡くなってすぐのことでした。
「おまえには無理だ」。社長との関係が悪化
27日は月曜で、通夜、告別式は週末の31日、8月1日に、父の故郷、山梨県で執り行いました。そして週が明けた3日、社長室を訪ね、窪田社長に葬儀参列のお礼を伝えました。すると、その場で「10月1日から香港に赴任してくれ」と言われたのです。
私はチャンスだと思いました。父は世を去った。いったんここで気持ちを切り替える意味でも、いい機会だと思い、「分かりました」と香港赴任を内諾しました。
父が亡くなる1カ月前、14年の株主総会で私は取締役に選任していただきました。肩書は常務取締役海外事業本部長で、アジア全体を統括する役職です。もちろん、この若さで常務になれたのは父の後押しがあったから。死を前に私のために後継者のレールを敷いてくれたのです。
ただ、前職の海外事業本部長が仕事の引き継ぎを一切してくれなかった。さすがにそれはおかしいのではないかと思っていたので、8月下旬、窪田社長と前任者と会食しているときに、そのことを持ち出すと口論になったのです。ここで窪田社長に言われたことは、鮮明に覚えています。
「(常務取締役海外事業本部長の任は)おまえには無理だ。反抗するなら、明日から会社に来なくていい――」
【編集部注】 窪田社長にこのときの発言の真意をただすと、会社側から「そのように発言した事実はない」という回答があった
売り言葉に買い言葉で、思わず心にもないことを口走ってしまったのでしょうか。
智仁:それは分かりません。ただこの日以来、私と窪田社長の関係が悪くなったのは事実です。実際に業務をやらせてみて、駄目だと思われたらそれは仕方がないけれど、やる前から無理だと言うのはどうか。結局、香港赴任の話は立ち消えになりました。
これより前に窪田社長と対立したことはありません。窪田社長は父より13歳年下。父に誘われて大戸屋に入り、国内事業本部長を経て12年、社長に就きました。親戚ですから、昔から法事などで顔を合わせることはありましたが、その程度です。私の入社後も、社長と社員という関係以上の会話はあまりしなかった。
ところが、この関係悪化は思わぬ展開を見せます。
9月14日、東京・赤坂のホテルニューオータニで、父のお別れの会を開きました。その場で窪田社長はAさんという当時相談役の人に「相談したいことがあるので、時間をつくってもらえないでしょうか」と打診したようです。なぜそれを知ったかというと、その夜に、Aさんから私に電話がかかってきたからです。「実は窪田社長と関係が悪化して困っているんです」と正直に話すと、「分かった。おれが何とかしてやる」と、Aさんは仲裁を買って出てくれました。
もともとAさんは01年に大戸屋が株式を店頭公開(現ジャスダック市場)した直後、現在の三菱UFJ信託から来ました。銀行では常務まで務めた人で、父は「メーンバンクの常務がうちに来ていただくなんて、こんな名誉なことはない」ととても喜んでいました。
当初、Aさんは会長だったのですが、父の期待とは違ったようで、しばらくすると相談役に退いてもらいました。私は父の紹介で学生の頃からAさんと面識があり、大戸屋に入社後は、よく食事を共にしていました。私と母が、父の弔辞を誰に頼もうかと考えたとき、真っ先にAさんの名前が出たくらい、信頼していた人です。
そんなAさんに、私と窪田社長の間を取りなしてもらえると思ったのですが、なぜかここから事態はさらに悪化します。
「降格人事」と噂される人事が
詳しく教えてください。
智仁:何日かたってから、Aさんが「メーンバンクが不採算事業の存在を知り、問題視している」と連絡してきました。融資を引き上げる可能性についても、言われた。この不採算事業とは何を指すのかというと、山梨県にある植物工場、中国の上海事業などです。
確かにいずれも採算は厳しいが、屋台骨を揺るがすほどの損失では全くありません。それなのに「負の遺産」という表現を使い、唐突に問題視してきたのです。
その少し前には、メーンバンクから大きな借り入れもしている。父の死後、いきなり手のひらを返して資金を引き上げるというのはおかしな話です。
それで三菱UFJ信託に確認を取ると「そんな事実はない」と言われた。私が不信感を抱いたのはこれが始まりでした。すると今度は11月6日の臨時取締役会で私は常務から外されます。
世間で「降格人事」と噂されているものですね。
智仁:窪田社長は2016年6月の株主総会で「降格ではない。経営体制の再構築を検討する中で、意思決定のスピードアップ、組織のフラット化を図るため」と説明しましたが、それなら、事前に相談があってもいいでしょう。
もともと6日の臨時取締役会の目的は、第2四半期の決算承認でした。ところが開催の直前、社長室に当時の専務と私が呼ばれ、降格人事について告げられました。その専務は、父と一緒に上海事業を担当した役員です。取締役会の決議に際しては、当事者ということで部屋から退出させられたので、有無を言わせず、です。
この日以来、社内で窪田社長とすれ違っても、会話はおろか、目も合わせてくれない状況が何カ月も続きました。一方、相談役のAさんは頻繁に会社に顔を出すようになり、気がつけば、肩書が「相談役兼最高顧問」になり、「最高顧問室」までつくったのです。
【編集部注】会社側に最高顧問室について確認すると「A氏専用の部屋ではなく、出社しない日は会議室として誰もが使える」との回答があった。また、「目も合わせてくれない状況」については、「事実ではない」と否定する。「窪田社長は智仁氏を会社から排除しようという考えは決してなく、事実、智仁氏に対して、経営の安定している香港子会社のトップとして経営経験を積んでくるように提案した。またその準備の一環として、現場での店舗運営の経験も積むように話し合っていた」と反論する。
さらに、創業者功労金を出すための臨時株主総会を15年12月に開催するというリリースを出していたのですが、それが中止になりました。功労金が出なければ相続税の支払いに支障を来します。
父の死後、不採算事業の処理が俎上に
会社側は「今後の経緯を見据えたとき、まずは不採算事業を整理し、さらなる業績向上を図ることが、株主の期待に応えるものと判断し、臨時株主総会を中止した」としています。
智仁:ただ、創業家の持ち株比率を下げるために、それまで関係者で合意していた功労金を出さないようにしたと思われても仕方がない動きもあったんです。例えばAさんからは「相続税が支払えないだろうから、会社で株を買ってやろう」とも言われました。
最終的には銀行から資金を借りることができ、株を手放さずに済みました(三枝子氏、智仁氏が、それぞれ筆頭株主、第2位株主になる)。
そんな中で再び香港赴任を求められました。しかし、このような状況下で日本を離れたのでは何をされるか心配ですし、だからといって、会社にいても話し合いの場すら持てない。
それで、香港赴任日だった16年3月1日の直前、2月24日の取締役会で辞任届を出しました。前会長が描いたものとは違う今の会社にいたいとも思わない。今日付で辞めさせていただきます、と。
16年6月の株主総会は、創業家の出方に注目が集まった
ただ、これで会社側と関係が切れたわけではなく、16年5月に双方の話し合いの場が持たれたようですね。同年6月の株主総会で窪田社長は、「(5月の席上)今後は三森家と会社側が、当社の発展のために一致協力していく旨の合意に至った」と言っています。
智仁:Aさんが合意書を作ってきたので、そこにサインしたのは事実です。私に会社に戻ってきてほしいが、今すぐは無理だから2年後だとか、一見すると歩み寄りの部分もあるように思えたのですが、あとでよく読んでみると、それらは努力目標で、担保されているのはAさんが取締役に入ることだけ。冷静に考え、破棄したのです。
はっきり言えばAさんは、父が会長から相談役に退かせた人です。その人が今さら、取締役に入ること自体がおかしい。一般的に考えても、相談役までなった70代の人が取締役に戻るというのはないでしょう。なのに、自ら主導するかたちで役員に戻ろうしたのです。
だから、5月18日に会社がリリースした役員の新人事案を見て、ふざけるなと思いました。新任取締役としてAさんをはじめ、新しい面々が並んでいた。父の社長時代に降格させられ、父のことをあまりよく思っていない人が復帰したりと、Aさんの思い通りになる人が集められた印象です。
取締役11人中8人を新任で占めるというのは、経営危機に陥った赤字企業ならまだしも、あまりない人事ですね。ただ、智仁さんはこの人事案に反対する旨はリリースで表明しましたが、株主提案はしませんでした。
智仁:したくても、できなかったからです。父の持ち株を、私と母の名義に書き換える作業が完了したのは16年3月。6カ月以上、株を持っていないと株主提案権を行使できませんから。
社外取締役には、Aさんからの求めでおじの教雄が入っています。私は「おじさんが取締役になると、創業家とうまく関係構築ができているという会社側のパフォーマンスに使われるから、取締役にならないで」と引き止めました。しかし、「おれが会社を守る。智仁が帰ってこれるように何とかする」と飛び込んでいったのです。
これがおおよその経緯です。
当初、窪田社長と関係が悪化したといっても、その時点では2人の話し合いで解決できる範囲内だったはずです。ところが、Aさんが絡んできたことで事態は複雑になってしまった。窪田社長も、Aさんには頭が上がらないようです。
正直に申し上げて、今の経営体制では厳しいと思っています。臨時株主総会の開催を求めるなど、これからしかるべき対応を取っていきたいと考えています。
本当はこんなことをしている場合ではないんです。大戸屋の売り上げは伸びていますが、客数は減少傾向が続いています。今回の一件がネットニュースで流れたとき、店に対する否定的な書き込みが目立ちました。「以前に比べて、味が落ちた」「価格が高い」「料理の提供時間が遅い」……。
そうした消費者の声に対し、経営陣は明快な戦略を描けていないのではないでしょうか。
父と母と私の3人で開店時にはティッシュを配った
騒動を早期に決着しないと、ブランドを毀損しかねません。
智仁:今はとにかく、お客様の意見を確実に、迅速に実行していくしかないと思っています。父はお客様のアンケート一枚一枚に目を通していました。最近の大戸屋では集計データ中心に分析していたけれど、数字だけではお客様の気持ちは分からない。
私が生まれた当時(1989年)、大戸屋は池袋、高田馬場、吉祥寺の3店だけでした。92年に吉祥寺店(東京都武蔵野市)がリニューアルオープンしたとき、母と2人、街頭でチラシ入りのポケットティッシュを配ったことを覚えています。それからしばらくは新しい店が出るたび、必ず母と駆け付けて、道行く人にティッシュを配りました。その頃から父の働く姿を見ていたのです。
お客様のほうを見ながら、父は一店一店、大戸屋を広げてきました。それは息子の私だけではなく、一緒に働いてきた社員の人たちもみんな分かっている。三森久実という人間が自分の命をかけて、何のために大戸屋という店を出してきたのか。それを考えると、父が亡くなった後、いろいろな人が来て、お客様のほうを見ることなく、会社をぐちゃぐちゃされたのが本当に悔しくてならない。
私のことはどう思われてもいいんです。ただ、父はもう言葉を話すことはできません。だから、父がどんな思いで店を、会社をつくってきたのか。そこだけはきっちり筋を通したいのです。
(この記事は、2016年8月号「日経トップリーダー」に掲載した記事を再編集したものです)
日経BP社では、三森智仁氏の著書『創業家に生まれて~定食・大戸屋をつくった男とその家族』を発行しました。「絶対不可能」と言われた食堂の多店化は、なぜ成功したのか。世間を騒がせた会社側と創業家の対立の背景には何があるのか。外食業界に大きな足跡を残したカリスマの一代記を、家族しか知らない秘話とともに詳述しています。
この記事はシリーズ「トップリーダーかく語りき」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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