街の呉服店からスタートした縫製業のマツオカコーポレーションは、2017年12月に東証1部上場を果たした。今では日本での生産をやめ、中国を中心にアジアの20近くの工場で生産する。数年後には、縫製業、世界第2集団入りを果たし、その後、第1集団を目指すという。縫製業界の事業環境の変化に柔軟に対応してきた同社の道のりを松岡典之社長に聞いた。

マツオカコーポレーションの歩みと松岡社長の経歴を教えてください。

松岡:創業者が父で、その後、叔父たちがバトンをつなぎ、私は4代目です。家は、もともと広島県上下町(現府中市)の呉服店でした。

 少し前に、NHKの朝ドラで『カーネーション』という、ファッションデザイナーの小篠(コシノ)三姉妹を育て上げた女性をモデルにした話がありました。小篠家も元は大阪・岸和田の呉服店で、その後、洋裁店を始め、3人はデザインの道へ進まれましたが、うちはデザインではなく、工場へと変わっていきました。

<span class="fontBold">松岡典之(まつおか・のりゆき)氏</span><br />マツオカコーポレーション代表取締役社長。1957年広島県上下町(現府中市)の呉服店(創業家)に生まれ、呉服店が工場へと発展していく様子を見ながら育った。姉妹に挟まれた長男。80年、駒澤大学経済学部卒業後、すぐに家業を継ぐため、松岡繊維工業(現マツオカコーポレーション)に入社、専務取締役営業部長などを経て、2000年から現職。現地法人7社の社長も兼ねる。(写真:山本祐之)
松岡典之(まつおか・のりゆき)氏
マツオカコーポレーション代表取締役社長。1957年広島県上下町(現府中市)の呉服店(創業家)に生まれ、呉服店が工場へと発展していく様子を見ながら育った。姉妹に挟まれた長男。80年、駒澤大学経済学部卒業後、すぐに家業を継ぐため、松岡繊維工業(現マツオカコーポレーション)に入社、専務取締役営業部長などを経て、2000年から現職。現地法人7社の社長も兼ねる。(写真:山本祐之)

 家が縫製工場に転じたのは私が小学校1年生の時でした。それから6年間、家庭的な小さな工場が、次第に大きくなっていくのを見てきました。ただ、小学校6年生のときに父が亡くなり、私のきょうだいは姉と妹なので、できるだけ早く家を継ぎたいと考えて、大学を卒業してすぐに府中へ戻ってきました。

 1980年代には、工場は従業員100人ぐらいの規模になっていました。広島県と岡山県をまたぐ備後地域では当時、ワーキングウエアの生産が盛んで、私たちも防寒衣料を中心にワーキングウエアを手掛けていたのですが、徐々にそれだけでは経営が立ち行かなくなってきました。そこで、カジュアルウエアも作らなくてはならないだろうと感じ始めていたのがこの頃です。

 

委託先の韓国の工場は巨大だった

 ところがこの頃、大きく労働環境が変わりつつありました。日本では縫製業で働く人が減り、高齢化の兆しも見えていて、新しい挑戦をするにも限界を感じるようになったのです。

 そこで、海外に進出することにしました。既に80年代には韓国向けの製品も作っていましたが、円高が進んだことで日本製品の輸出自体が厳しくなってきて、逆に、多くの商売が輸入にシフトするようになった転換期でもありました。

 輸入した製品でお客様のニーズに応えるため、82年には韓国で委託生産を始めました。このとき驚いたのが、その委託工場の大きさです。従業員が何千人いるという規模でした。どうしたらこんなに大規模な工場が経営できるのか、不思議でもあり羨ましくもあり、勉強したいと思いました。

 ソウル五輪が開催された80年代も終わりになると、韓国でのモノづくりも厳しくなってきました。そこで、90年に中国に進出して合弁の会社をつくり、中国で本格的な生産を始めたのです。

 中国の工場は650人でスタートしたのですが、自分たちの日本の工場は100人規模ですから、実は、このような大規模な工場の経営が本当に運営できるのか不安でした。

次ページ 中国のパートナーが不動産事業に傾斜