本記事は2017年4月11日に「日経ビジネスオンライン」の「トップリーダーかく語りき」に掲載されたものです。タビオ会長の越智直正氏が2022年1月6日にお亡くなりになり、追悼の意を込めて、再掲載させていただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

(日経ビジネス電子版編集部)

 靴下問屋での丁稚奉公からスタートし、靴下専門店の全国チェーン「靴下屋」を一代で築いた創業者。国産の質の良い靴下にこだわり、今でも商品開発に尋常ならざる熱情を注ぐ。「自分の生命保険で借金を返そう」と死を覚悟したほどの経営危機を乗り越え、一生を通じて、一つのことを貫き通してきた波乱の人生を振り返る。

靴下専業メーカーのタビオを創業してまる48年。越智会長は裸一貫からここまでこられました。今まで経営をしてきた中で、苦労したことは何ですか。

越智:よく「会長、苦労しはったね」と言われるけど、「苦労した」と思ったことは一度もありません。言い換えると、苦労を感じる余裕すらなかった。苦労は、ゆとりがあるからそれが苦労だと感じる。今、振り返ると「あれが苦労だったのかな」と思うことはあるけど、そのときは無我夢中で、それが苦労だとは思わんもんです。

そこをあえて挙げるとすれば。

越智:資金繰りですな。とりわけ創業したばかりの頃は、聖徳太子が刀を抜いて追い掛けてくるから、全力疾走で逃げ回っていましたよ。

 でも、そんなときに、つらいとかしんどいとか思う暇はない。ただただ必死ですわ。日がな一日、頭の中にあるのは借金のことばかり。借金をするために会社をつくったようなありさまでした。

 気がつけば借金まみれです。創業から5年後には借金が7000万円まで膨らんでいました。昭和40年代のことですから、ものすごい大金です。2日後に期限が来る手形530万円を前に「あかん、一巻の終わりや」と思いました。

<b>おち・なおまさ</b> 1939年愛媛県生まれ。中学卒業後、大阪の靴下問屋に丁稚奉公。68年に独立し、ダンソックス(現タビオ)を創業。靴下の卸売りを始める。82年に小売りに進出。84年に「靴下屋」1号店をオープンすると同時にフランチャイズチェーン展開を開始。メード・イン・ジャパンにこだわり、品質の高さと独自の生産・販売管理システムでタビオを靴下のトップブランドに育て上げた。2000年大証2部に上場。02年英ロンドンに海外初となる店舗を出店。08年から会長。著書に『靴下バカ一代 奇天烈経営者の人生訓』(日経BP社)など。(写真:水野浩志)
おち・なおまさ 1939年愛媛県生まれ。中学卒業後、大阪の靴下問屋に丁稚奉公。68年に独立し、ダンソックス(現タビオ)を創業。靴下の卸売りを始める。82年に小売りに進出。84年に「靴下屋」1号店をオープンすると同時にフランチャイズチェーン展開を開始。メード・イン・ジャパンにこだわり、品質の高さと独自の生産・販売管理システムでタビオを靴下のトップブランドに育て上げた。2000年大証2部に上場。02年英ロンドンに海外初となる店舗を出店。08年から会長。著書に『靴下バカ一代 奇天烈経営者の人生訓』(日経BP社)など。(写真:水野浩志)

死を覚悟した西郷隆盛の気持ちが分かった

そのピンチをどう切り抜けたのですか。

越智:僕は生命保険に入っていて、もしものときには保険金2400万円が支払われることになっていたんです。だから「わしがトラックに飛び込めば済むことや」と決心しました。そう決めたらかえって気持ちが落ち着きましたわ。死を覚悟した西郷隆盛が別府晋介に介錯を頼み、最後に「晋どん、もうここらでよか」と言った気持ちが分かりました。

 夫婦そろって僕にお金を貸してくれていた人もいたんです。借金をして「おおきに」と言って帰るときに、奥さんに呼び止められて「越智さん、私は小銭しかないけど、これも使って」と渡された。破産したらそんな人たちにとても合わせる顔がない。

 生命保険で2400万円下りれば、7000万円の借金のうち少なくとも3割は払えます。たとえ3割でもいい、命を懸けて払おうと。それはうそじゃない、本心からそう思っていました。

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