通信用基板製造などを手掛けるシステック。その業態は、受託設計製造、自社製品開発、技術者派遣と多彩だ。技術者派遣は、若手を大企業に送り込み、そこでの事業に貢献させるほか、腕を磨かせる。やがて彼らは自社製品開発の担い手となる。同社をゼロから中堅企業に育て上げてきた梶村武志会長に、その道筋と継ぐ者への思いを聞いた。

梶村さんは40年余り前にシステックを創業、今では約240人の従業員が働く電子機器メーカーに成長させ、2017年ついに社長をご子息に譲られました。社長を譲った理由についても後で聞きますが、もともと起業のきっかけは何だったのでしょうか。

梶村:起業するまでは、当時の日本楽器製造、今のヤマハに勤めていました。その頃のヤマハの従業員は、「社員」「社員補」「準社員」「工員」に分かれていて、私は中学校卒でしたから「工員」です。この地位を上がっていくための試験は毎年、会社が用意してくれていましたので、ヤマハの社員として頑張っていく道もありました。私も当初はヤマハでの出世を目指して、浜松工業高校の定時制の機械科に通い始めました。

バイト先に夜の仕事の女性たちが買い物に

 会社では、夕方5時まで勤務だったところを4時半で切り上げて高校へ行きます。高校では陸上選手でしたので、授業が終わって練習をすると夜11時頃になります。その後、自転車で1時間かけて街中へ出て、スーパーマーケットでアルバイトです。

<span class="fontBold">かじむら・たけし</span><br />システック代表取締役会長。1948年浜松市生まれ。中学卒業後、日本楽器製造(現ヤマハ)に入社、働きながら浜松工業高等学校(定時制)で学ぶ。日本楽器での出世も考えたが独立、74年同社創業。内職同様の仕事から始め、プリント基板組み立て、電源装置生産、ソフトウエア開発など受託業務を拡大。現在は、受託業務に携わる一方、自社製品の開発に注力。創業以来社長だったが、2017年から現職。座右の銘は「謙虚にして驕らず。さらに努力を」「YES WE CAN」。趣味は渓流釣りとゴルフ。(写真:森田直希)
かじむら・たけし
システック代表取締役会長。1948年浜松市生まれ。中学卒業後、日本楽器製造(現ヤマハ)に入社、働きながら浜松工業高等学校(定時制)で学ぶ。日本楽器での出世も考えたが独立、74年同社創業。内職同様の仕事から始め、プリント基板組み立て、電源装置生産、ソフトウエア開発など受託業務を拡大。現在は、受託業務に携わる一方、自社製品の開発に注力。創業以来社長だったが、2017年から現職。座右の銘は「謙虚にして驕らず。さらに努力を」「YES WE CAN」。趣味は渓流釣りとゴルフ。(写真:森田直希)

 そのスーパーは、浜松市の繁華街で深夜営業をしていました。午前2時まで働きました。水曜が定休でしたので、火曜の夜には従業員に生鮮食品を分けてくれていたんです。それに、夜の仕事の女性たちが買い物に来て、青年だった私に励ましの声を掛けてくれるということもよくありました。そんな実益や楽しみがありましたので、夕方までヤマハで働いて、夜に学校、深夜はスーパーでバイトという毎日を長く続けていました。

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