そこで、日本電子工学院(現日本工学院専門学校)を訪ねられた。
野澤:最初はコンピューターを勉強するつもりだったんですが、あいにく、私が行ったときにはすでに学生募集が終わっていました。どうしようかと思っていたら、大学の先輩でそこの講師をしていた人が、「それなら教師になったらどうか?」と誘ってくれたんです。
専門学校の講師をしながら、人脈を広げて情報収集
コンピューターの黎明期でしたから、学生は集まっても教師が不足している。おまえ、ちょうどいいところに来た、というわけです。これが大きな転機になりました。
夜間になると、その分野で本を書いていらっしゃるような大学の先生方がたくさん講師としてやってきます。その方たちにお茶を出しながら人脈を広げました。2年目からは、企業に売り込みにも行きました。学生の就職先を確保するためです。そうやって情報収集しながら独立したのが70年です。
前年の69年には、IBMがソフトとハードを分離して販売するようになり、ソフトに値段が付くようになっていました。本格的なコンピューター時代の幕開けです。学校にいても、時代の変わり目をひしひしと感じていました。というのも、68年頃から求人票が殺到するようになっていましたから。

時代の変わり目を実感しても、実際に起業される方とそうでない方がいらっしゃいます。野澤さんの場合はなぜ、目の前にある安定を捨てて飛び込むことができたのでしょうか。
野澤:私の場合はもともと「いずれ会社を経営したい」と思っていましたし、そうした問題意識もありましたから。
多くの方はいろいろなことを知識として持っていても、それをあまり自分事とは思わない。私はいずれ起業するんだと思っていましたから、まずはコンピューターにピンときた。ただし、すぐに起業する資金はありませんでしたから、学校の先生をやりながら人脈を広げ、最初はその経験を生かせるオペレーターの派遣業から始めたんです。
当時、コンピューターは非常に高価でしたので、昼夜を問わず稼働させないと採算に合いませんでした。それで、どの企業もオペレーターを3交代で勤務させていました。そこは常に人手不足状態だったんです。
オペレーターの派遣で基盤をつくり、そこからソフトウエアプログラムの開発へと事業を伸ばしていきました。ステップを踏みながら、だんだんと形をつくってきた感じです。
Powered by リゾーム?