通信・社会インフラ、機械制御などの組み込み系ソフトウエア開発や業務系ソフト開発を手掛ける富士ソフトは、設立以来、独立系の開発会社として成長してきた。創業者の野澤宏氏は、いったんは経営の最前線から退いたものの、現在は代表取締役会長執行役員として経営改革に取り組んでいる。復帰に至るいきさつと、その想いを聞いた。
野澤さんは1970年、横浜市にある団地の自宅兼事務所で富士ソフト(当時は富士ソフトウエア研究所)を起業されました。以来、コンピューターのソフトウエア開発において独立系企業としての地位を築き、高齢者と会話して運動をサポートする人型ロボット「パルロ」を開発するなど新分野にも積極的に取り組んでいます。まずは起業に至った思いをお聞かせください。
野澤:私が東京電機大学に入ったのは、ちょうど日本の高度経済成長が始まった頃でした。学部は工学部電子工学科。あまり勉強熱心な学生ではありませんでしたが、「これからは電子工学だ」と言われ、なるほどそうかと思っていました。

1942年生まれ。66年東京電機大学工学部電子工学科卒業後、大明電話工業(現ミライト)勤務を経て、日本電子工学院電子計算部の講師となる。70年、団地の自宅兼事務所で富士ソフトウエア研究所(現富士ソフト)を設立。以後、独立系ソフトウエア開発企業として独自の地位を築く。87年株式を店頭登録。東証2部を経て、98年東証1部に上場。野澤氏は2001年に会長就任、04年会長兼社長、08年会長、11年会長執行役員、12年から現職(写真・菊池一郎)
コンピューター黎明期に時代の変化を実感
通信の技術が生かせるだろうと思い、最初は大明電話工業へ就職。当時の電電公社(現NTT)から電話局の機械設備や通信路の敷設、回線の新設などを請け負う会社で、日本全国に出張できてなかなか楽しかった記憶があります。ただ、やはり、会社勤めは肌に合いませんでした。
そんなふうに思っていた入社2年目、現場の工場長から渡された1冊の本に「PERT」のことが載っていました。PERTとは、工事の納期を短縮するための工程管理の手法です。「欧米にはこんな学問があるのか」と興味が湧き、関連書籍を読むと、その基本は統計処理であることも分かりました。
いずれは、大量のデータを処理するコンピューターがなければプロジェクトを動かすことができない時代がやってくる。そう思い、「もう一度、コンピューターを勉強したい」と会社を辞めました。
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