「やらまいか精神」で日本のノーベル賞を支え続ける浜松ホトニクス。カリスマ経営者から事業を引き継いだ晝馬明社長は、自らが接着剤となり、現場と経営層を結び付ける新しい経営スタイルを模索している。
そもそも社長はなぜ御社に入ろうと思われたのですか。経歴を拝見すると、米国の大学を卒業した後、1984年に浜松ホトニクスに入社し、そのまま米国ハママツ・システムズ・インクに出向されていますね。
晝馬:簡単に言ってしまえば、晝馬という姓を持っていたからでしょう。私は学生時代、コンピューターサイエンスを専攻していましたが、もともとは化学をやりたかったんです。
当時、化学といえばドイツかなと思っていました。それで、20歳のときに2年間、ドイツ語を勉強してドイツへ行こうと思っていたら、父親が「家族全員で米国に行く」と言い出した。それで「明、おまえも来い」と。そこで方針転換しまして、米国に行くならコンピューターかなと思い、米国の大学ではコンピューターサイエンスを専攻し、プログラムソフトウエアを書くようになりました。

地下室でソフトを書くのが楽しかった
私は今、59歳ですが、1年上にビル・ゲイツとか、スティーブ・ジョブズとか、ああいった連中がゴロゴロいるような世代でして、当時の米国はまさにマイクロプロセッサーの発展期でした。ですから、その発展とともに私自身も生きていた。ソフトを書くのは本当に好きで、あまりに楽しいから家にも仕事を持ち帰って、地下室なんかでこつこつ書いていたんです。そういったエンジニアリング的な仕事をするのは、とても楽しかった。
私はソフトウエアの出身ですから、光センサーとか、いわば“入り口”から見たら一番遠い分野の人間です。ただ、その出口として、画像が出てきたわけです。それでもう、画像処理をしたりするのが非常に楽しくなった。
やりたかったことと取り組んでいることが、時代とともに急速に近づいてきた?
晝馬:そうですね。ソフトウエアというのは、これからますます比重が増えていく分野ではないか、と思っています。クラウドを使ったビッグデータという言い方、私はあまり好きではないんですけれども、そうは言ってもそうやっていろいろな情報が集まってくる中を、じゃあ、どう使っていくのか。
皆さんの健康データなどもいろいろ集まってきて、病気の予測までできるようになってくる。ソフトというのは恐らく、その辺まで進化していくでしょう。そこに対して、我々としてもどういう形で貢献できるのかを考えていきたいと思っています。
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