海外での仕事が16年あまり、イタリアで学んだブランドの価値

川島:そもそも戸倉さんは、時計が好きでシチズンに入社されたのですか?

戸倉:いや、全然興味なかった(笑)。ここに入った動機のひとつは、海外の仕事がしたかったから。入社した1973年は、日本が高度経済成長を遂げて、海外に向けたビジネスが広がっていった時代でした。僕は外国部商品課に配属されて、1979年には香港担当、その後、中近東担当ということで、ドバイに販売拠点を作る仕事を担ったのです。

川島:ゼロから拠点を作ったのですか?

戸倉:これから中東地域における貿易の拠点が必要ということで、担当することになったのです。その頃、腕時計の世界では、機械式時計に代わり、時を正確に刻むクォーツが、日本の時計メーカーの圧倒的な強みとなっていたのです。ですから、海外拠点をゼロから作っていく厳しさはありましたが、商品の持っている優位性がはっきりしていたので、開拓のためのいわば資産があったのはありがたかった。

 その後はヨーロッパに移っての仕事でした。イタリアに会社を作れということで、1989年からミラノで6年半、その後、パリで3年半、現地法人を作って運営する仕事を任されたのです。そうやって総括すると、全部で16年くらい海外の仕事に携わったのが、僕のシチズンでの歴史です。中でもイタリアで学んだことは大きかったですね。

川島:ヨーロッパはやはり時計の本場ですから。

戸倉:イタリアで僕は、ブランドとは何かについて、徹底して学ぶことができた。それも、ノウハウというよりブランドというものの概念について、多くを体得したととらえていて、その財産は、日本にもどってからの仕事に大きく役立つことになった。なぜなら、ちょうど新世紀に入った頃から、市場の流れが変わってきたからです。

 それまでの成長時代は「性能が良いものを作れば売れる」という概念がまかり通っていて、数を追うビジネスばかりを行ってきた。それが結果的にコモディティ化に陥っていき、ブランドという価値をないがしろにしてしまった。結果的に、2002年には赤字を計上するまでになっていたのです。

 ブランド化して価値を上げることをやっていかないと将来はない。シチズンというブランドの価値を、改めて見直さなければと感じました。

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