川島:ディナーに参加させていただいたのですが、こういうイベント、ともすると日本人のジャーナリストばかりということが多いのですが、そうではなく、現地の方が多かったのに驚きました。お料理も和食じゃなくて、フレンチという趣向も面白かったです。炭火焼ならではの味の深さとか、鉄鍋で出された料理の熱々ぶりとか、しっかり伝わってきました。

熊澤:予想以上の手ごたえがあったと感じています。釜浅商店が担ってきた「売る仕事」とは、使い方や手入れの仕方を丁寧に伝えること。それを100年以上にわたって続けてきたわけですが、それが海外でも通じると、よくわかりました。

川島:販売の手ごたえはどうですか?

熊澤:小さいバットやボウルといった、小型の調理器具がよく売れています。「あたり鉢」の動きも良くて、どうも、こちらにはないらしいんですよ。それと、炭火焼の道具に関心を持つ方もたくさんいらっしゃいます。

川島:それは面白い! パリには和食屋さんがたくさんあるし、スーパーで普通にお鮨を売っていて、和食がブームの域を越え、すっかり根づいています。一方、日本のさまざまな道具の質が高いという評価も、日本人が思っている以上になされています。和食の調理道具を売るタイミングとして、絶好だったのでは?

熊澤:いずれはパリで店を持ちたいと考えているんです。

川島:それは素晴らしいこと、是非、実現してください(笑)

「先はないかも」ということから始めたブランディング

川島:ところで熊澤さんは、4代目を担っていますが、若い頃から「家業を継ごう」と思っていたのですか?

熊澤:いや、そんなことないんです。自宅が店の上にあって、ゴハンはいつも和食ばかり。カレーとかハンバーグとか、子どもが好むようなメニューは、一切出てこなかったんです(笑)

 もちろん、家業が料理道具屋とわかってはいました。ただ「跡継ぎ」と言われて育ったわけでもなかったんです。それが、そろそろ就職をという頃になって、「25歳までは何をやってもいいが、25歳になったらうちにもどってこい」と、親父に言われるようになって。

川島:やっぱり継いで欲しいという思いがあったのですね。でも、「何をやってもいい」と言われた25 歳まで、どんな仕事をしていたのですか?

熊澤:中目黒にある家具屋さんに入ったんです。その店、過去のデザインを復刻したりしていて。やっぱりモノ作りが好きだったんでしょうね。

川島:それで25歳になった時、本当にそこを辞めて、釜浅商店に入ったんですか?

熊澤:親父の言うこと、一応きいたんです。無理やりというより、その頃になると、うちの仕事って面白そうだと思うようになっていたので、むしろ積極的でした。最初は丁稚奉公みたいに下働きを徹底してやらされて(笑)