有田焼創業400年を迎える今年、「2016/ project(ニーゼロイチロクプロジェクト)」が、イタリアで4月に開催された「ミラノサローネ」で発表された。

 これは、佐賀県がバックアップするかたちで、3年前から進められてきた再生プロジェクトのひとつ。発足前からご縁があって、継続的に取材を続けてきたが、集大成を「ミラノサローネ」でお披露目するという。「ミラノサローネ」は、大規模な家具インテリアの見本市であり、世界中からジャーナリストやバイヤーが訪れ、厳しい評価と判断をくだす場。少しドキドキしながら取材に行った。

(Overview 2016 collections Photography Scheltens & Abbenes)
(Overview 2016 collections Photography Scheltens & Abbenes)

 ミラノの中心街にある会場を訪れると、10の窯元と6つの商社が、国内外の16組のデザイナーと手がけたものが並んでいる。プロジェクトにかかわった人たちが、来場者と熱心に話している。高い評価を得ている様子を目にしてほっとした。

 そもそもの発端は、百田陶園が4年前に「ミラノサローネ」で発表したブランドだった。代表取締役社長を務める百田憲由さんが、自社の再生を図るために、デザイナーの柳原照弘さんに依頼して、「1616/arita japan(イチロクイチロクアリタジャパン)」というブランドを立ち上げたのだ。

 この活動を目にした佐賀県産業労働部理事の志岐宣幸さんが百田さんに声をかけ、そこに柳原さんも参加することになり、「2016/ peoject」が始まった。「有田焼に変革を起こし、産業として復活させたい」という意図のもと、16社もの企業が一緒になって進めていくプロジェクトへ広がっていったのだ。

 産地の再生プロジェクトには多くの課題を感じてきた。デザイナーを先生と祀り上げ、言われるままにモノ作りして、海外の見本市に出展して終わりで、作ったものが世に流通していかない。あるいは、参加する地元企業が、「行政が引っ張ってくれるから」「行政が頼りになるから」と、どこか他人事になっていて、自力で成果を出そうとする意欲に欠ける。具体的な成果につながっていかないのだ。

 本プロジェクトは、そういった轍は踏まないという強い意思が込められたもの。有田焼といういわば「老舗」が、新しい時代に向けて舵を切ろうとする大胆な試みでもある。きっかけを作った百田さん、行政として参画した志岐さん、全体のクリエイティブディレクターを務めた柳原さんに話を聞いた。

有田焼はもともとアヴァンギャルドな産業だった

川島:このプロジェクトとのご縁は、4年前の「ミラノサローネ」で発表した「1616/arita japan」でした。「魅力的な展示だな」と足を止めて百田さんの話を聴いて、あまりに興味深いので、東京でもう一度お会いして。以来のお付き合いですが、そもそも「1616/arita japan」を立ち上げたきっかけから、教えていただけますか?

(2016 team Photography Kenta Hasegawa)
(2016 team Photography Kenta Hasegawa)

百田:家業をやっていく中で「このままでは、有田焼は行き詰まる」と、ずっと考えていたんです。有田には、たくさんの窯元や商社があるのですが、どこも「守る」ことしかやっていない。それじゃ生き残れないわけです。

川島:そんなに危機的な状況だったのですね?

百田:そうです。窯元がどんどん減っていて、最盛期の6分の1にまで落ち込んでいるんです。

川島:えっ、有名な有田焼なのに、どうしてそんなにダメになってしまったんですか。

百田:もともと有田焼は、常に新しいことに挑戦してきたんです。高度で斬新な技術とデザインが欧米から評価を得て、大きな影響力を持ってもきた。つまり、世界から見て、有田焼はアヴァンギャルドな産業であり、有田は“インダストリアル・シティ”だったのです。それが、バブル期に売れ過ぎたのがいけなかった。

川島:売れ過ぎたのがいけないとは?

百田:何もやらなくなってしまったんです。新たな挑戦なんてしなくても売れるから。ここ数十年は、ただ技術を守っていただけなんです。だから、何とかしなければとずっと思っていて。生まれ育った有田が大好きなだけに、有田焼が産業として復活して欲しいと願ってきました。

川島:百田陶園は、有田でモノ作りを営んできたのですよね。

百田:そもそもは窯元だっのですが、昭和20年代に商社としての機能を強化したんです。親父が早くに亡くなったので、僕は26歳で家業を継ぎました。手探りで、何とか経営をみてきましたが、どんどんダメになっていく感じから抜け出すには、「越える」しかない。「越える」ことで「継続」していく。そんな挑戦をしてみようと考えたのです。

川島:それで新しいブランド作りということに?

百田:そうです。ただ、事を興すにも、ひとりじゃ何もできない。そんな折、たまたまデザイナーの柳原さんと出会って、「この人の手がけるプロダクトデザインに力がある」と感じ入り、思い切って依頼してみたのです。ただ、発表するまでに1年2カ月くらいしか時間がなくって(笑)、超特急でやらなければならない。資金も潤沢にあるわけじゃない。柳原さんがよく受けてくれたと感謝しています。

川島:「1616/arita japan」を見た瞬間、魅力的な商品だと感じました。

百田:ありがとうございます。「海外の暮らしに根づく有田焼」を提案してみたんです。お蔭で、国内外から評価を得て、新しい販路も拓けました。確かな手応えを得ることができたんですが、自分の会社だけでは意味が薄いと感じてもいました。有田焼は約200社が営んでいるわけですから、その環境全体が変わっていったらいいなと。そんな折、有田焼創業400年事業のリーダーを務める佐賀県産業労働部の志岐さんから声をかけていただいたんです。

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