父の怒り、「つまらない人間」になるな

日常性を追求するためには、やはり東京の拠点が必要だったというわけですね。振り返ってみれば、セゾンの文化の活動は、日常そしてビジネスの中に、文化や芸術を持ち込むということでした。たか雄さん自身、六本木にあった、セゾングループの音楽ソフト店「WAVE」などが、印象に残っているそうですね。

:そうですね。1983年にできた「六本木WAVE」は、音楽の専門館のような形で、一番上が収録のスタジオだったのですね。収録が終わったアーティストが館内を回って、1階でうちの母が経営していた「レイン・ツリー」というダイニングバーで打ち合わせをするという感じでした。布袋寅泰さんや、坂本龍一さんがよくいらして、私も中学生の分際でお会いできる場所でしたね。

セゾン文化の継承を理解するために、清二さんとの関わりについても、お聞きしたいのです。さっき清二さんに褒められることは、そんなになかったと話されましたが、家庭では、子供を叱るようなことが多かったのですか。

:あんまりなかったですね。ただ権力を振りかざして威張ることが本当に嫌いな人でした。唯一怒られた記憶があるのが、小学生ぐらいのときに、父の運転手がいらして、私が「だって運転手なんだからいいんじゃない」みたいな言い方をしたときに、怒鳴るというよりも理詰めですね。私が泣くぐらいまで言ってくるんですよ。何で運転手はだめなんですかみたいな、あなたと運転手さんはどう違うんですか、どういう点であなたの方が偉くて、運転手は偉くないんですかとか。そういう形で、最もくだらない人間の考え方だ、というようなことを言われました。

そうですか。

:父はもともとが社会主義者ですから(清二氏は東京大学入学後、共産党の活動などに参加した)。「つまらない人間」という表現はよく聞きました。つまらない男だとか、つまらない女だとか。そう思われることをすると本当に怒られましたね。

何か実態がないのに威張ったりとか、そういうのがすごく嫌だったんですね。

:嫌いでしたね。どうしても組織だとそうなりがちじゃないですか。父の意に反して、セゾンもそういうところが強かったんですね。すごく批判していました。セゾンの社員が、自分(清二氏)の前で「ははー」と言うのに、部下に対しては「おい」みたいになって、しょうがないなと、言っていました。

たか雄さんが、子供時代に少しいじめられた時期があったと、ご自身で文章に書いていらしたのを見たことがあります。コンプレックスなどが、ありましたか。

:結構ありましたね。今、考えると、父が現役で、とても有名だった時代です。私立の学校に電車通学していて、家に帰ってきても友達もあんまりいなかったのです。小中高の一貫教育だったのですが、変な話、それなりに裕福な家庭の子供たちが来るので、お母さんが結構暇だったりして、私の家族について根も葉もないうわさをすることはありました。私は、自分ひとりで絵を見たり、自然と戯れたりというのが好きな子供だったのです。そのころに現在の自分の基礎ができたので、今は過去の環境に感謝していますよ。

清二さんも子供のとき、ご自身がいじめられた話などを、書いていましたね。

:そうですね。小学生のときに、いつもいじめてくる同級生がいて、1回反撃して、ぼこぼこにしたら言わなくなった、ということを書いていましたね。「正妻の子じゃない」と言われたとか、そういうことがあったようですね。

堤清二さんのそうした経験や、康次郎さんという家父長的な父への反発心などが、その後の「セゾン文化」の形成につながっている面もあるのでしょうね。

:多分そうですね。父の思想がまず、権力よりも、どちらかといえば弱者を擁護する考え方でした。オリンピックなどを見ていても、弱いアフリカの国を応援するような人でしたね。

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