感情や感覚をともなったまま“冷凍保存”された記憶

しかし一方で、トラウマは大変な悪さをするわけですね。トラウマやPTSDに苦しむ人は、一般の人が想像するよりも、ずっと大変な苦痛を感じていると聞きます。

<b>白川美也子(しらかわ・みやこ)氏</b><br/><b>精神科医、臨床心理士</b><br/>「こころとからだ・光の花クリニック」院長。浜松医科大学卒業後、独立行政法人天竜病院小児神経科・精神科医長、浜松市精神保健福祉センター初代所長、昭和大学特任助教などを歴任。トラウマに関するケアや治療技法の普及に努めている。EMDR学会理事(認定コンサルタント)。著書(共著含む)に『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4840735433/" target="_blank">心的トラウマの理解とケア 第2版</a>』、『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/457125041X/" target="_blank">支援と復興の災害心理学</a>』、『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4901030221/" target="_blank">赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア</a>』など。</p>
白川美也子(しらかわ・みやこ)氏
精神科医、臨床心理士
「こころとからだ・光の花クリニック」院長。浜松医科大学卒業後、独立行政法人天竜病院小児神経科・精神科医長、浜松市精神保健福祉センター初代所長、昭和大学特任助教などを歴任。トラウマに関するケアや治療技法の普及に努めている。EMDR学会理事(認定コンサルタント)。著書(共著含む)に『心的トラウマの理解とケア 第2版』、『支援と復興の災害心理学』、『赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア』など。

白川:そうです。たとえ本来は安全な記憶であったとしても、トラウマ記憶に関連があるだけで、その体験を思い起こさせる引き金になってしまうことがあります。出来事を想起させる状況に出会ったとき、トラウマ体験が今起きているかのようにフラッシュバックしてしまうことも。あるいは再び事件に遭遇するのを恐れて、家から出られなくなってしまったりすることもあります。そうした症状はとても辛いもので、社会生活を営むうえでの障害となります。

 トラウマやPTSDのメカニズムについて説明する時に、私がしばしば例に挙げるのは次のような話です。

 仮に誰かから300グラムのお肉をもらったら、家に帰って料理して自分の糧にすることができますよね。でも、もしもらった肉が30キロもあったら? 大量すぎるので冷凍するしかありません。このたとえ話と同様に、事件や事故などに遭遇したとき、それが心の耐えられる許容量を超えた圧倒的な体験であった場合、その体験を一度に咀嚼することはできず、脳の中でそのときの感情や感覚をともなったまま“冷凍保存”してしまうのです。それがトラウマ記憶となってしまいます。

 この記憶は、普通の記憶とは異なり、なるべく思い出さなくてすむように脳にしまい込まれます。いわば、壁で隔てられた特別の冷凍庫に入れて保存されているようなものです。そこにはトラウマを受けたときの五感や感情、思考や認知が、生のままの状態で保存されています。

 そして、その記憶が何らかのトリガー(引き金となる刺激)によって解凍されるとき、それが「今」「ここ」で起きているかのように脳の中で再現されてしまいます。もしくは、覚醒水準が落ちているときに、そのときの記憶や感覚がまるで「入り込んでくるように」感じる再体験が起こったりもします。いずれも、そのときの感覚や感情が、生々しくよみがえるため大変苦しいものです。

 よく、若い人たちが「失恋したことが、トラウマになってしまって…」などといった会話をすることがありますが、通常は失恋がトラウマになることはありません。時間が経つにつれて苦しかった思いも、「セピア色」の記憶になっていくのが普通です。しかし本当のトラウマ記憶は何十年経っても劣化せずに、いつまでも鮮明な感覚をともなったまま保存されているのです。

従来の手法より苦痛が少なくてすみ、治療も速く進む

白川先生は、トラウマ記憶を解消する手段として、20年以上も前から「EMDR」という手法を使ってこられました。東日本大震災の後も、岩手県の宮古・山田地区や盛岡市で被災者のトラウマのケアにEMDRを用いて、大きな成果を上げて来られたと聞いていますが、EMDRはどのようにしてトラウマを解消していく手法なのですか。

白川:正確に申し上げれば、東日本大震災後の沿岸部での支援は主にPTSDの「発症予防」に焦点をあてたものでした。実際にPTSDを発症した方々は盛岡市内の病院で診ていたんですよ。

 EMDRについてご説明するために、東日本大震災からずっと時間軸をさかのぼってみましょう。最初に私がEMDRという治療法に出会ったのは、静岡県浜松市内の病院の神経科に勤務していた1990年代後半です。私はその頃、静岡県警の犯罪被害者対策アドバイザーとして犯罪被害を受けた方の治療に携わっていました。その多くが性暴力や性的虐待など対人暴力の被害者でした。阪神・淡路大震災の被災者のケアをした精神科医やセラピスト(心理療法士)の助言もあってEMDRの講習を受けた後、適応可能と考えられた犯罪被害者の方の治療に用いたのが私の最初の経験でした。

【「EMDR」という手法について】

「EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作および再処理法)」は、1989年にアメリカの臨床心理士、フランシーン・シャピロ博士によって発表された比較的新しいトラウマやPTSDの治療法。クライアント(患者)はトラウマの体験の元になった辛い過去の記憶を思い出しながら、精神科医やセラピスト(心理療法士)の素早くリズミカルな指先の動きを目で追い、左右に眼球を動かす(左右の手へのタッピングや音刺激など、「両側性」の刺激を身体に与える場合もある)。EMDRのセッション(治療)の過程では、当初の記憶に関連した別の記憶を想起するので、想起した別の記憶にさらに焦点を当てながら再び眼球を左右に動かす。この作業を繰り返すうちにトラウマ記憶が脱感作され(苦痛な記憶による症状が減退していき)、記憶に対して新たな理解や意味づけをともなう「適応的情報処理」と呼ばれるプロセスを経て、普通の記憶の一つへと変化していくと考えられている。その効果は目覚ましく、トラウマやPTSDなどといった各種の病態を、短期間で快方へ導くことが可能だ。

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