人それぞれ違うところは認め、共通のものとできるところは合意できる感覚(=「コモンセンス」)として共有する。合意できないところは、そのまま放っておこうと。つまり「相手を変えようとはしない」こと。この心がけがとても重要です。相手を変えようとしたり、自分の私的感覚を相手に押しつけようとしたりするから問題が起こるのです。
実は、個人主義の欧米では一般的に「課題の分離」を強調する必要はありません。親子の間であっても、親は親、子供は子供と、別人格であるのが当然の社会で、もともと課題の分離がなされているからです。一方、日本など東アジアでは、いまも家族主義的であり個人主義はまだ浸透していません。家を中心に親や子の課題がくっついてしまっているのが現実なのです。
ビジネスの世界でも同様で、会社の中で上司の課題と部下の課題がくっついてしまっています。「君を見ていると、心配なんだよ」「おまえのためを思って指導しているのだ」などという言葉によって、部下を支配してしまう。これは問題です。
だから、岸見さんと古賀さんは、こういう背景をふまえ、日本の事情に配慮し、課題の切り分けを強調されたのかもしれません。課題の分離を強調した『嫌われる勇気』が日本のほかにも、韓国や台湾など、個人主義が浸透していない東アジアで大変な人気なのも、この地域の社会の背景にあるものを考えると、もっともな感じがします。
心配するという行為自体は私の課題、心配を相手に押しつけない
「課題の分離」とは、つまり向後先生の場合で言うと、ゼミや研究室の学生さんがたとえ単位を落とたり卒業できなかったりしても、放っておくという姿勢ですよね。それは「学生の課題」であると。
向後:学生が単位を落としたり、進級できなかったり、就職できなかったりすると私でも心配ですよ。でも心配するという行為自体は「私の課題」ということです。「自分はこんなに心配しているのだぞ。だからお前、がんばれよ」などと、その心配を相手に押し付けることはしません。
ちなみに、心配する延長線上で「この学生のために自分は何ができるだろうか」と考えることは、アドラーのいう「共同体感覚」というものに近づくことだと思います。共同体感覚とは、簡単に言えば、人とつながっている感覚、相手のために何ができるかという感覚です。
「対等の関係」ができていれば、ほめたっていい
向後先生は、学生をほめるということも普段しないのですか? アドラー心理学の教えの一つである、子供や部下を「ほめてはいけない」という部分に自分は心理的抵抗を感じ、これまでアドラー心理学になかなかなじめませんでした。
向後:アドラー心理学には「勇気づけ」という重要な概念があります。相手が自分自身を信じ、困難を乗り越えられるような言葉をかけてあげることです。しかし、勇気づけの際にアドラー心理学が推奨するのは、相手をほめたり、励ましたりすることではありません。ほめると、相手と自分の関係が、支配と依存の関係になってしまう可能性があるためです。
とはいえ、ほめたって別にいいのですよ。「アドラー心理学では、人をほめてはいけない」という概念だけが何か先行してしまっているような感じですが、私も人をほめることはあります。アドラー心理学が危惧するのは、ほめることによって「上下の関係」「縦の関係」(支配と依存の関係)をつくってしまうことです。「先生が生徒をほめる」「上司が部下をほめる」──そのときに、ともすると縦の関係が発生してしまいがちです。縦の関係とは、一方が一方をコントロールしてしまう関係です。
相手との関係が支配・服従の「縦」の関係ではなく、対等の「横」の関係であることが何よりも重要であることをアドラーは説いています。親子の関係であっても、上司・部下の関係であっても、横の関係であることが大切です。横の関係とはそれぞれの人が対等であり、自分らしくいて、相互に協力し合える関係です。
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