あえて人に嫌われる必要はない
要するに、岸見さんの著作ではあるけれども、どちらかというと、実際の執筆を行った古賀史健さんや編集者の影響が強い本ではないか、というお考えですね。
向後:そうです。例えば、タイトルについて言うと『嫌われる勇気』という言葉は刺激的なフレーズですが、アドラーの言葉ではありませんし、アドラー心理学の中心的なアイデアでもありません。それは岸見さんもご存じのはずで、キャッチコピーのようなものと私は考えています。
岸見さんと古賀さんの訴えたいことは、「自分の信念に従って生きるために人から嫌われたとしても、それは問題ではない」ということであろうし、私もその考え方に賛同します。しかし、あえて人に嫌われる必要はないのは言うまでもありません。ただ、本のタイトルとして用いた場合、結果である「嫌われてもいい」という部分が前面に出過ぎて、勘違いをする読者がもしかしたらいるのではないかとは思いました。
岸見さんの別の著作『アドラー心理学入門』(1999年刊)を読んでいただくとわかりますが、こちらは『嫌われる勇気』に比べると温かい語り口です。この本は古賀さんが岸見さんのアドラー研究に興味を持ったきっかけになった本とも言われています(参考記事 ケイクス「祝58万部突破!なぜアドラーの思想が絶大な支持を集めたのか?」)が、『嫌われる勇気』と『アドラー心理学入門』は同じ著者とは思えないですよね。『アドラー心理学入門』の内容の方が、本来の岸見さんではないかと私は思っています。
もちろん岸見さんの考え方が変わったのではなく、例えば「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」などにおいて、他者から嫌われることを極度に恐れる人が増えた現実があり、そうした状況に即した内容にするために、『嫌われる勇気』ではアドラー心理学の要素の一部を強調したということだと思います。
「課題の分離」を強調するのは、個人主義が根づいていないから
『嫌われる勇気』には読者をひきつけるための、オーバーな表現が少なくありません。相談者である「青年」(=読者)に対して厳し過ぎやしないかという印象があり、一読した時、自分にはなじめない感じがありました。それが最も端的に出ているのが、「他者の課題」には踏み込まないことを強調した部分ではないかと。
向後:「課題の分離」の部分ですね。
書籍『嫌われる勇気』には、「他者の課題を切り捨てる」という章があって、「課題の分離」について詳細に解説しています。例えば、子供が勉強するのかしないのか、あるいは友達と遊びに行くのかいかないのか、これらは「子供の課題」であって、親の課題ではない。親が「勉強しなさい」などと命じるのは、いわば他者の課題に対して土足で踏み込むような行為──などと書かれています。
テレビドラマの「嫌われる勇気」でも、「先輩」という呼び名はやめてくれと主人公が言い、困惑した後輩が「では、なんと呼べば?」と返すと、「それはあなたの課題です」と言い放ちます。主人公は「私とあなたは上下関係にありません」とも言っていたので、後輩と(アドラー心理学でいう)「縦の関係(支配と依存の関係)」になるのをおそらく嫌ったのでしょうが…初対面の先輩からこんな風に言われた後輩は、ちょっとキツイのではと…。
向後:確かに『嫌われる勇気』に書かれているような「課題の分離」を現実社会でいきなり実行すると、かえって生きづらくなるかもしれませんし、問題が起きる可能性はありますね。私個人としては、「あなたの課題」「私の課題」とわざわざ切り分けなくても、各人のプライベートセンス(私的感覚、その人が「正しい」と思っていることや「良い」と思っていることの集合体)はそれぞれ違うということを相互に認め合えば、誰の課題であるかは自然に分離されると思っています。このため、自分が書いた『幸せな劣等感』では、課題の分離には一切、触れませんでした。
Powered by リゾーム?