「大通り」を行くだけが人生ではない

自分の欲求を押し殺している状況ですね。ただ、現実には、仕事が忙し過ぎて心の欲求に応えられないのであれば、仕事を辞めない限り改善は難しいかもしれないですね。

泉谷:もちろん、そういうケースもあるでしょうね。私のクリニックに来られるクライアントさんにもよくお伝えしていますが、例えば休職している人が同じ職場の同じ仕事に復職することだけが「ゴール」なのではありません。私のクリニックでの精神療法や心理療法を通じてじっくりと検討した結果、今の仕事や職場に納得できないことが明確になったような場合には、転職したり、独立起業したりすることも選択肢に入ってくるだろうと思います。

 精神的に追い詰められた方々の原因を大別すると、「本人側」に原因がある場合と、その人が属している「環境側」に原因がある場合があります。本人側に問題がある場合は、たとえ勤務する会社を変えたところでいずれ同じ行き詰まりが生じるため、精神療法を通じて本人が抱えている問題の解消に努めていくことが不可欠になります。しかし、会社の体質や仕事の内容、上司との関係など、環境に原因がある場合は、さきほど申し上げたように、その人が本当に何をしたいのかをしっかりと突き詰めたうえで、転職したり独立起業したりすることも視野に入れるべきでしょう。

 つまり、そうした方々は、企業が売り上げや利益を出すためといった「意義」をひたすら追求する“労働教”に疲弊してしまっているのです。人間として「意味」を感じられるような生き方を模索することが大切です。皆と同じような「大通り」を行くだけが人生なのではなく、自分らしいユニークな「小径(こみち)」を行ったって良いんじゃないか、とクライアントさんに伝えることがよくあります。

日本は今もムラ社会だから、「空気を読む」

環境に問題がある場合というのは、どういうケースがありますか。泉谷先生がかねて著書で指摘されてきた、「個人主義」が確立されていないがゆえの「同調圧力」といったこともありますか。

泉谷:日本では職場や組織に対する「同調圧力」が強く、窮屈な思いをするということがもちろんあります。いわゆる「空気を読む」というやつです。あいにく日本は今も「ムラ社会」ですから。いまも従順でない者には、一種の「しごき」が与えられることさえあります。電通社員の過労自殺といったこともその延長線上にある問題です。個人主義の未熟な社会ゆえの悲劇と言えるでしょう。

 ここからは、ちょっと脱線するのをお許しいただきたいのですが、以前、私が研究社から出した本(『「私」を生きるための言葉 ~日本語と個人主義~』)で、言葉を切り口にして、日本の「ムラ社会」を考察したことがあります。欧米の言語と日本語を比較したら、とても興味深いことが見えてきたのです。欧米の言語では、主語を立てることが必須になっているわけですが、日本語には本当の意味での主語がないのです。そのことが、日本の社会の在り方を象徴的に表しているのです。

ムラ社会ゆえに、日本語には「主語=私」が欠けている

「同調圧力」のお話から、ずいぶん話題が変わりましたね(笑)。

泉谷:いいえ、日本語の言語構造と「ムラ社会」とは直接関係しているという話です。ちょっと我慢して聞いてください(笑)。日本の社会の特徴を考える上で、日本語に「主語」がないという考え方から、示唆を得るところは少なくありません。

 「日本語では主語が省略されることが多い」と私たちは学校で習ってきましたよね。その考え方で言えば、省略されることは多いものの、日本語に主語はあることになります。でも、そうではなくて、一見、主語とされているものは「主題」を立てているだけであって、そもそも欧米語のような主語がないのではないかという議論が近年活発になっています。そのため、日本語を用いる私たちは、「私」という一人称がない未熟な「0人称」にとどまってしまうという傾向を帯びているのです。

「0人称」とはどういう意味でしょう。

泉谷:「0人称」と最初に呼んだのは哲学者・フランス文学者の森有正で、日本人の話し手には「自分がない」という意味が込められています。日本語では自己と対象の主客が合一的で、その間の境目があいまいです。話者は個人主義の欧米人のような確固とした主体を持っておらず、相手との関係によって話す内容さえも変化してしまいます。言い換えれば「誰」が言ったかはあまり問われない社会。「誰でも同じ意見である」「同じ価値観を持っている」という前提に立った社会であるとも言い換えることもできます。自分もほかの人間も考え方は同じだから、あえて主語を明示する必要はないということになるのです。

日本は「主語=私」がないという言語構造からして、環境に同調していく傾向を帯びていると。

泉谷:そうなんです。しかし面白いことに、インド・ヨーロッパ語族の言語も7世紀くらいまでは、やはり日本語と同じように主語というものはなかったのだそうです。しかし、そのうち動詞の活用が始まり、主語も登場してきた。英語では12世紀頃、主語の義務化が起こるようになってきた。それはムラ的だったヨーロッパの中世の社会が、「個人」に目覚めていった社会の流れと密接に関連しているわけです。

つまり、日本は「個人主義」という点では800年くらいヨーロッパから遅れていると。ゆえに自分と他人との関係が未分化で、「同調圧力」もまだ強いのだということになるのでしょうか。