Universe of Water Particles, Transcending Boundaries

 例えば、この動画作品(上に掲載した動画)「Universe of Water Particles, Transcending Boundaries」。あらかじめ記録された映像を再生しているわけではなくて、デジタル技術で描いた滝が、リアルタイムで壁から床へと流れていく。その流れの途中に鑑賞者がいると、水流は足元で割れる。鑑賞者が作品を見ながら、作品自体に影響を与えている。

 この滝には、もう一つの作品「境界のない群蝶、儚い命」から、蝶の群れが入ってくる。蝶は展示空間を自由に飛び回って、ディスプレイ作品も含んだ色々な作品の中を横断しながら飛び交う。花々の作品の花が咲くと花の方に寄っていったり、花がなくなるとそっちには寄っていかなかったり。作品は、こうして相互に影響を与えあっているから、境界はあいまい。だけど、8つの作品は独立している。

美の基準が変わると産業が変わる

面白いですね。作品の反響も凄まじく、展示前から、米ウォール・ストリート・ジャーナルなどが取り上げていました。チケットも瞬間蒸発でなくなりました。これほどの関心を持たれているのは、なぜですか?

猪子:本当のところは分からない。分からないんだけど、何か「美の基準」を変える可能性があるかもしれないと感じているのかもしれないよね。

「美の基準」ですか?

猪子:もうちょっと分かりやすく言うと、人が「かっこいい」と思う基準。

 すべての行為というのは、実は合理性による行動よりも、美の基準によって決定していることの方が圧倒的に大きい。例えば自分の着ている服って、多くの人が合理的な判断で選んでいるわけじゃないでしょう。

 でも、人はなんとなく「かっこいい」ジーンズに惹かれたりする。だから、この「かっこいい」という基準は、人の行動に大きな影響を与えているんだよね。

 そして、歴史的に、美の基準が変わるということは、人類の行動が変わるんですよ。その結果、新たな産業が生まれたり政治が変わったり。産業構造そのものが変わることもある。

 アートにはこの「かっこいい」の基準を変える可能性がある。それは時に産業にとてつもなくインパクトを与えてきた。

 例えば、アンディ・ウォーホールというアーティストがいた。彼が登場したのは1960年代だけど、当時、パリコレクションは、全てが一点物のオートクチュール(高級仕立て服)。つまり、大量生産されているものは価値の低いものとされていた。

 ところがウォーホールはそんな時代に、誰もが知っているマリリン・モンローの写真や、どこにでも売っているスープ缶を大量に並べた作品を発表した。ウォーホールの作品をかっこいいと思ってしまったことによって、「みんなが知っているもの」はかっこいいんだ、という風に価値基準が変わっていった。結果的に大量生産されているものは決して格好悪いものではないと。

 そのインパクトは大きかった。ラグジュアリーブランドというのは当時、ルイ・ヴィトンって2店舗しか店舗がなかった。でも今では、世界の富裕層が大量生産されたものを高級品として購入している。ラグジュアリーブランドというのは今、オーダーメードをやっていない。大量生産したものを高級品として扱っているよね。だから、ラグジュアリーブランドという産業は、美の基準が変わらなければ生まれなかったかもしれない。

 もちろん、人の行動が変わったから、それがアートに投影されているという見方もできる。どちらが先かは厳密に言えないかもしれない。それでも、美の基準を変える行為は緩やかに人類の方向性を決めたり、変化のスピードを拡大することに等しいと思っているんだよね。

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