先生は死と向き合い、自身の信仰とも向き合ったと振り返っています。そして、もし生きることができたなら、今度は本当に自分の書きたいことをだけ書いてやろう。その思いが「沈黙」には込められています。

 では、何を書きたかったのかというと、それは「日本人にとってのキリスト教とは何か」ということです。それを生涯のテーマとして、「母なる神」に向かいます。

 若い日に先生はフランスに留学し、裁き罰する厳しい西洋の「父なる神」に出会います。それに肌が合わなかった。だから、日本人にも馴染めるような神とは何かを考えた。それは厳しい父のような神ではなく、母のように優しく抱きしめてくれる神――。それを生涯かけて書こうとしたのだと思います。

遠藤文学は、いまだに根強い人気がありますが、そういった許せる神のようなコンセプトが受け入れられているのですね。

加藤:そうだと思います。ふつう、作家は死んでしまうと本屋の棚に作品が少なくなります。当たり前ですよね。新しい作品は出ないのですから。

 ただ、遠藤周作の場合、死んでから20年が過ぎましたが、その間、新しい本が毎年出つづけました。小説やエッセイが新たに編み直されて、出版されました。去年も3冊以上出ています。この世紀になっても本が求められる、売れるということは、時代の人たちの心をつかむ何かがあるのでしょう。西洋的価値観ではない独特の優しい母のイメージと、ダメで弱い人間に対する温かさと共感、そして人間を超える大いなる命。そういったことがいまの時代だからこそ、求められているのではないでしょうか。

遠藤周作=キチジロー

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弱者といえば、「沈黙」では何度も転んでは信仰を取り戻す、キチジローが思い浮かびます。

加藤:キチジローは、「沈黙」の中のもう1人の主人公ですね。遠藤周作は「キチジローは自分だ」と書いています。人を簡単に裏切ってしまうような弱い人間にこそ、神は向かい合ってくれる。その問題もスコセッシ監督は見事に描き出しましたね。

 遠藤周作がキチジローと自分を重ね合わせるのは、自分にもまた弱い、ダメな、すぐに人を裏切ってしまう要素があるからでしょう。たとえば先生は母親にものすごくかわいがられたのですが、一方で母親を手ひどく裏切ってもいます。しかも何回も裏切っている。両親は、彼が小学校のときに離婚しました。遠藤少年は、母親に育てられる。愛情たっぷりに育てられるのですが、ただ裕福ではなかった。だから、大学に入るときに学費と生活費が母親の許では賄えない。そこで生活のために母親の家をでて、父親のいる東京の家に暮らします。そこには、離婚の原因にもなった、父親の新しい妻もいた。その家族と食卓を囲む。息子の胸の中に、神戸に一人暮らす母の姿が、後ろめたさと共に浮かんだとしても不思議ではありません。キチジローは遠藤周作でもあり、またすべての人なのでしょう。