「踏むがいい」の表現に驚き

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そのほかにも印象的な点があるとしたら、何を挙げられますか?

加藤:もう1つ挙げるとしたら英語の使い方でしょうか。私は、英語はさほど強くないんですが、それでも英訳本に1つの不満がありました。それは最後の踏絵を踏むところです。

 「沈黙」の英訳本は、ウィリアム・ジョンストン訳ですが、ロドリゴが最後に転ぶ場面での「踏むがいい」という言葉に「trample」を使っているんです。辞書でひいてみると、踏むというよりも、踏みにじるに近いんですね。「踏むがいい」という遠藤周作の文章は「踏んでもいいんだよ」という、もっと優しいイメージですね。だから、私は命令形の「trample」には不満だったんです。だからそこをどういう言い回しにするか、と期待していました。

 見事でした。映画では、「It's all right.…… Step on me」だったと思います。そういう優しい「踏んでもいいんだよ」という表現に変わっていたんです。もちろんスコセッシ監督は、英訳版で読んだのでしょうけれど、あそこのシーンをその表現に変えた、その感性にも感嘆しました。

 遠藤文学に一番詳しい外国人にバン・ゲッセルというアメリカ人がいます。大学の教授で、「沈黙」は訳していませんが、「侍」をはじめ5、6冊訳しています。私はバン・ゲッセルさんから聞いたのですが、スコセッシ監督に台本を見せられて、細かいところまですべて意見を聞かれた、と言っていました。昔、私はゲッセルさんと話したときに、さっきの「踏むがいい」の訳語についての不満を話していたので、ひょっとすると、ゲッセルさんが監督に進言したのかもしれません。

 ただ一つ、ちょっと気になったのは、長崎の貧しい村の農民の何人もが英語をしゃべっていたことでしょうか。宣教師を通して覚えたにせよ、老いた村長(むらおさ)が上手に英語をあやつる。もっともハリウッド映画はマリー・アントワネットでも見事な英語をしゃべりますから、これは許される範囲なのかもしれません。

これまでのお話を聞くと、スコセッシ監督がとにかく忠実に遠藤文学を実現しようとしていたことが分かります。

加藤:先週、ロスアンゼルスに住んでいる知り合いからある新聞記事が送られてきました。地元の「ロスアンゼルスタイムズ」で「沈黙」が取り上げられていました。記事では映画を絶賛しているのですが、その中に「スコセッシと遠藤周作という素晴らしいアーティスト、その二つの魂が融合するのを目撃できる」と書いてありました。遠藤周作の意図は、スコセッシ監督によってほぼ完璧に映像化されたということでしょう。

「沈黙」は遠藤文学の変換点

遠藤周作は、30代の終わりに大病をし、「沈黙」は病気から復活してからの最初の作品です。何かそれまでと変わった点はあるのでしょうか?

加藤:遠藤周作のそれまでの作品、「海と毒薬」や芥川賞作品の「白い人」などいろいろありますが、「沈黙」で明らかに文学は変わりました。私は「沈黙」が遠藤文学の新たな出発点だと思っています。そのテーマは何かと言うと、それまでには描いたことのなかった「母なるイエス」だと思います。

 30代の後半に再発した結核は、遠藤周作という作家をひどく苦しめました。何度も手術をして、最後の手術は成功率も50パーセントを切るという手術でした。それを乗り越えて生還し、そして「沈黙」を執筆するのです。