このペテロの否認は、有名な文学的テーマでもあり、チェーホフも小説に書いていますし、ボードレールも詩に、またレンブラントが絵画にしています。さらに音楽では、バッハの「マタイ受難曲」はペテロが泣くところで曲が結ばれています。だから「鶏が鳴いた」と言えば、西洋のキリスト教徒なら誰でもペテロの否認を思い浮かべます。

 で、ペテロはその後どうなったかというと、最高の弟子になります。ローマに行って最初の教会を建てたのもペテロです。そこが重大で、つまりロドリゴも踏絵は踏んだけれども、ペテロと同じです。転んでも、また再生する。信仰は捨てていないわけです。

 しかしこれはなかなか読者には伝わらなかった。日本の読者の場合にはとくにそうでした。

幻のタイトル「日向の匂い」

確かにキリスト教徒ではないと分かりにくいですね。私は、鶏にそんな意味がるとは全くわかりませんでした。

加藤:後悔というともう1つ、話していました。それは「沈黙」というタイトルです。「沈黙」とつけてしまったために、読者の多くがこの作品を「神の沈黙を描いたもの」と受け取ってしまった。けれども自分は「神は沈黙していない」というつもりでこの小説を書いた。これも誤算の一つで、今だったら自分は「沈黙」というタイトルはつけない、とも言っていました。

 余談ですが、最初の原稿に付けられていたタイトルは『日向の匂い』だったのです。しかし出版元である新潮社から「これでは売れない、『沈黙』にしたほうがいい」と勧められて変更したということです。今だったら、出版社の勧めには従わなかった、と言っていました。

ただ、今さら「日向の匂い」と言われても、ちょっとパッとしないように思います。

加藤:その通りですね。ただ、先生の中では、常に「沈黙」という言葉を読者がどう理解してくれるか、ということが1つ気にかかっていたと思うんですね。

 以上のように、「沈黙」には大きな2つの後悔があったわけです。ところが、今度の映画をみて感じたのは、作者が懸念したことに見事な決着をつけているということです。

 まず、ロドリゴは信仰を棄てていなかった、ということ。映画を見た方はこれに関して何の疑問も持たなかったでしょう。それはあの見事なラストシーンによっても明らかにされています。

 あのラストは、原作にはないシーンです。ところが、正確に遠藤周作の意図をすくい取っているわけで、これはもう見事としかいいようがありません。

 それともう1つの「神は沈黙していない」という点ですが、この証拠として、もちろんロドリゴが踏絵を踏むシーンで聞こえるイエスの言葉「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」――を挙げてもいいのですが、じつはもう一つ、小説の最後には次の言葉が置かれています。

「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」

 この言葉をスコセッシ監督は大事なところで使っています。これはいわば遠藤文学のキーワードでしょう。

 遠藤周作は、神は存在ではなく働きだと常々言っていました。在るか無いかではなく、神は人々の人生を通してあらわれてくるのだと。これを映画は見事にすくいとっているように思えます。