「沈黙」で遠藤周作が後悔していたこと

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作品の真意をくみ取ったと感じたのは、具体的にはどのあたりなのでしょうか?

加藤:それを説明するにあたって、遠藤周作が生前に語っていた「沈黙」に関して後悔していたことについてお話ししましょう。先生が60代の半ば、晩年なのですが、自書である「沈黙」について語る1時間のビデオを作りました。長崎、すなわち「沈黙」の舞台を訪ね、そこで私が聞き役となりました。私も聞きたいことを全部聞きましたし、先生もそれについて丁寧に答えてくれました。

 私は「沈黙」を今改めてどう思うかについて尋ねたのです。「沈黙」は著者が42歳の時に執筆したので、それから20年以上が経っていました。

 すると先生は大きく2つの後悔があると言ったのです。この小説は、日本でキリスト教が弾圧されていた時期に日本に来た、ポルトガルの司祭セバスチアン・ロドリゴを主人公とするものです。役人はロドリゴに信仰を棄てること、すなわち「転ぶ」ことを強要しますが、なかなかロドリゴは転ばない。しかし、小説の終盤でついに転ぶ。この転んだシーンがあまりに鮮烈なので、多くの読者がロドリゴは信仰を棄てたと考えた。ところが作者は、「ロドリゴは信仰を棄てていない」ということを書きたかったと言うのです。

 作者は、ロドリゴが信仰を棄てていないことを、確かに小説のなかに書いたのです。最後の章の後の「切支丹屋敷役人日記」の中です。たとえば以下の部分です。

「宗門の書物相(あひ)認(したた)め申し候様(やう)にと遠江守申付けられ候」

 ここでは、ロドリゴが書を書けと役人に言われている。では、何の書かというと、「私は転びます」という書なんです。しかも、これを何回もやらされる。つまり、何回も「私は転びます」と書きながら、そのたびに彼は信仰を取り戻し、そして最後までそれを棄てなかったということを読者に知らせるため、作者は「切支丹屋敷役人日記」を置いたのに、それが古文調であったこともあって、巻末の資料としか見られなかったのです。

私も原作を読んでいて、その「日記」の章は意味が捉えにくかったこともあり、ほぼ流してしまいました。

キリスト教徒ならわかる「鶏が鳴く」意味

加藤:実は、ロドリゴが転んでいないということは、クライマックスのシーンにも作者は何気なく書いています。ただし、これも日本の読者にはわかりにくかった。ロドリゴが踏絵を踏み終わったシーンです。

「こうして司祭が踏絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」

 この「鶏が遠くで鳴いた」というところには、作者の思いが込められています。「鶏が鳴く」といえば、西洋のキリスト教徒なら、おそらく誰もが、聖書の中の一つのシーン――「ペテロの否認」を思い浮かべます。ペテロというイエスの弟子が、イエスが捕まったときに、町まで様子を見に行くのですが、人々から「この男も今日捕まったあの男と一緒にいた」と指さされて、「私はあんな人は知らない」と否認するのですが、そのときに鶏が鳴きます。

 これは例の最後の晩餐の際にイエスが予告していたことです。「おまえは鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないというだろう」。そしてその通りになって、ペテロが激しく泣くというシーンが新約聖書にあります。