情報システムの企画が面白くなった

<b>日高 信彦 氏</b><br /> ガートナー ジャパン 代表取締役社長<br /> 1976年東京外語大外国語部卒業後、日本アイ・ビー・エム入社。1996年アプリケーション・システム開発部長。2001年アジア・パシフィックCRM/BIソリューション統括。2003年4月から現職。
日高 信彦 氏
ガートナー ジャパン 代表取締役社長
1976年東京外語大外国語部卒業後、日本アイ・ビー・エム入社。1996年アプリケーション・システム開発部長。2001年アジア・パシフィックCRM/BIソリューション統括。2003年4月から現職。

日高:運命づけられたようなものですね。

平林:そういうところもあったかもしれませんが、1983年の4月に配属になって、そのパソコン売場に5年間おりました。パソコンブームは2~3年で去ってしまったのですが、1985年に電電公社がNTTになって通信自由化が進み、電話機を売れるようになったので、パソコンだけではなく、電話機も売りました。

 1988年に長男が生まれましたもので、10カ月ほど休職し、1989年3月に戻ったら、店ではなく本部に異動になりました。商品部のバイヤーになり、取り扱ったのはパソコンや電話機でした。その後、数年間バイヤーをやりましたが、子育てをしながらだったこともあり、その職責をなかなか果たしきれなかった。

 上司からも余裕がないと見られたようで、1993年だったかな、同じ商品部の中で、業務担当という仕事に替わりました。業務担当というのは、発注システムのために商品マスターを作るとか、事務作業をこなします。

日高:情報システムに近づきましたが、コンピューターそのものの仕事ではまだなかったわけですね。

平林:ええ。ところが業務担当を数年間やっていたら、たまたまその部門が情報システム部門に統合されることになりました。ここからシステム部門の人間になったわけです。

 最初にやったのはシステムの運用ですね。業務担当でデータの入力とか管理をしていたから、システムを動かす仕事がよいだろうと思われたみたいです。それからしばらくして、システムの企画にまわってくれと言われました。店舗と商品部の経験があるということが理由だったそうです。

日高:現場感覚とか業務感覚があったわけですから、企画には向いていたでしょう。パソコンも知っているし。

平林:そういったバックグラウンドを有効活用しようということもあったのでしょうか。幸いなことに、システム企画に入ってみると、仕事がとても面白くなって、「もしかしたらこの仕事は私に向いているかも」と思ったりしました。

 それから、その当時古くなったシステムの改革だとか、それこそITによる業務改革とか、西暦2000年問題対策とか、いろいろやってきました。仕上げというわけではなかったのですが、かなりの規模の既存システムを刷新しようとほぼ決めたときに、ウォルマートとの提携が決まり、その計画はすべて棚上げになりました。

日高:それからフィージビリティースタディーに入り、ウォルマートとの付き合いが始まったわけですね。今はどうですか。ウォルマートというコミュニティーにしっかり溶け込んでいらっしゃるはずですよね。

平林:はい。ちょっと大げさでしょうが、ベントンビル(ウォルマートの本社所在地)は第2の故郷ぐらいに感じています。

日高:「海外の人と友達になりたい」という思いがかなったと(笑)。

平林:やっぱり最初のフェーズで侃々諤々しながらやり合った人たちはもう戦友なんですよね。会うたびに「あのときは大変だったね」と言って、同じ話をして、飲んで、笑います。この辺は日本人もアメリカ人も何人も関係ないです。

日高:見てきたわけではないですが、私なりの解釈を申し上げると、おそらく最初のフィージビリティースタディーをやろうとしたとき、コミュニケーションポイントとして誰が適任なのかということも調べていますよ。平林さんはオープンなコミュニケーションがとれると見たのでしょう。

平林:その辺りは分かりませんが。まあ、どちらかというとオープンなコミュニケーションスタイルを心がけていたと思います。

次ページ ITの人はビジネス部門との関係を深めてほしい