ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が訪日し、12月15~16日の2日間にわたって安倍晋三首相と首脳会談を行なった。多くの日本人が期待していた北方領土の返還に関する進展はなく、「落胆」の声が目立つ。しかし、本当にそうなのか。ロシア問題の専門家、畔蒜(あびる)泰助氏は、北方領土問題について重要な事実が明らかになったと見る。
さらに、日ロ関係には「二つの面」があり、北方領土問題ではないもう一つの面に注目する必要があると主張する。重要な事実とは、そして、もう一つの面とは何か?
(聞き手 森 永輔)
畔蒜 泰助(あびる・たいすけ)
東京財団研究員 兼 政策プロデューサー 専門は米ロを中心としたユーラシア地政学、ロシア国内政治経済、日ロ関係、 原子力を含むロシアのエネルギー戦略。モスクワ国立国際関係大学国際関係学部修士課程修了。国際政治、ロシア国内政治を専門とするジャーナリストとしても活動。(撮影:菊池くらげ)
今回の日ロ首脳会談をどのように評価しますか。
畔蒜泰助氏(以下、畔蒜):目標を何と考えるかによって評価は異なると思います。日ロ関係には2つの面があります。一つは北方領土問題の解決を含む平和条約の締結。こちらについては確かに大きな進展はありませんでした。しかし、今回の首脳会談が実現するまでの過程で、我々は重要な事実を確認することができました。
もう一つの面は、中長期的に中国と対する上でロシアに戦略的中立を保たせることです。そのためには日ロの一層の関係緊密化が不可欠で、今回の首脳会談に至るプロセスもその過程と考えます。これに資する成果があった点は正しく評価するべきでしょう。
北方領土の返還と平和条約の締結に関する重要な事実とは何ですか。
明らかになった北方領土返還に関わる三つの事実
畔蒜:三つあります。第1は、解決するにしても、1956年の日ソ共同宣言がベースになることです。つまり、引き渡しの対象は歯舞群島と色丹島のみ。国後島と択捉島の2島は返ってこないことを覚悟して交渉を進めなければなりません。首脳会談後の記者会見でプーチン大統領は、2島の引き渡しを定めた日ロ共同宣言のあと日本が、米国から圧力を受けて4島一括変換に方針を転換したことに触れました。これは、この点を強調する意図があったからと思われます。
第2は、一定の信頼を積み上げないと先に進まないこと。プーチン大統領は世界中のロシアの専門家が毎年恒例で集まるヴァルダイ会議の場で、筆者の質問に答えて「中国との間で領土問題を解決できたのは、前例のないレベルでの協力関係を構築できたからだ」と発言しています。日本との関係を改善するにも、同様の協力関係が必要であることを示唆したものと思います。
第3は、歯舞群島と色丹島を日米安全保障条約の適用外としなければならないこと。ロシアの安全保障と直結するからです。米軍が駐留するようなことがあれば、ロシアの安全を脅かすことになります。ロシアにとって受け入れられるものではありません。
したがって、歯舞群島と色丹島が仮に引き渡されても、主権とともに引き渡されるとは限りません。日本が主権もしくは施政権を持つと、日米安全保障条約の対象になります。
プーチン大統領は同じ記者会見で「平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡すことになっている。ただし、どのように引き渡すかについては明記されていない」と発言しました。2012年3月に「引き分け」発言をした時にも同様の指摘をしています。そう考えると、同大統領の姿勢はぶれていないのです。ちなみに、今回のプーチン訪日に至る一連のプロセスの起点はこの発言に遡ります。
プーチン大統領は記者会見で安全保障に関連して「ロシアが抱く懸念を考慮してほしい」と発言していましたね。
今回の首脳会談を前に、「北方領土返還で進展があるのでは」との期待が日本国内で異様なほどに高まりました。ロシアから何かシグナルがあったのでしょうか。
プーチン大統領の「引き分け」発言に過剰な期待
畔蒜:それは分かりません。今回明らかになった三つの事実を前提にこれまでの経緯を振り返ると、ロシア側の発言は一貫しています。ロシアの外務省は「日ロ間に領土問題は存在しない。あるのは平和条約締結に関する問題だけだ」と言い続けてきました。プーチン大統領は「引き分け」と言っただけで、その内容は詰められていません。
プーチン大統領が使った「引き分け」という表現に日本側が過剰な期待を持っただけなのかもしれません。
畔蒜:そうした面はあると思います。仮に歯舞群島と色丹島が日本に引き渡されれば、主権の移動がなくとも、ロシアとしては「引き分け」と言い得るわけですから。もちろん、それは日本の立場とは相入れませんが。
ロシアのアジア重視は変わらない
畔蒜:今回の首脳会談を受けて「プーチン大統領には北方領土を引き渡す意思はない」「プーチン大統領はウソをついた」といぶかる向きもあります。でも、私はそうは思いません。ロシアは日本との平和条約の締結を本当に望んでいると見ています。その理由は、冒頭に申し上げた、中国との関係にあります。
ロシアは2012年3月以来、東方外交を展開しています。中国を筆頭に、アジアの国々が経済を急速に成長させている。ロシアとしてもこの機会を逃すわけにはいかない。オバマ政権がアジアピボットを進めているのも同じ事情からです。2008年のリーマンショックを機に欧州経済が低迷したため、欧州経済への過度な依存に危険を感じてもいるでしょう。
ロシアがアジアをにらんだ時に、最も重要なのは、世界第2位の経済大国で長い国境線を接する中国との関係です。貿易や投資を拡大したい。しかし、中国に過度に依存するのも危険。ゆえにロシアは日本との関係も深めたいと考えています。ロシアは歴史的に「積極的中立」の外交政策を好みます。つまり、台頭する中国との関係を一層深めていく。その一方で、日本との関係も深めることでバランスを保とうとするのです。
「ロシアとの関係改善を提唱するドナルド・トランプ氏が米次期大統領に決まり、日本との関係を改善する必要が薄れた。それゆえプーチン大統領は対日姿勢を改めた」との見方があります。私はこの考えには与しません。ロシアにアジアシフトを促すファンダメンタルズは変っていません。
今回の訪日で予定されていた一連の行事をすべてこなしたことが、ロシアが日本を長期的な観点から重視していることの一つの証だと思います。ロシアは今、シリア問題を巡って非常に緊張を強いられる局面にあります。プーチン大統領の元にはひっきりなしに情報がもたらされ、判断を求められる。会談に遅刻したのもシリア問題に対処するためです。今回の訪日日程を途中で切り上げてもおかしくない状況だった。それでも全日程を消化したことは、ロシアが日本との関係強化に真剣だとの証左です。
日ロ間で信頼は醸成できるのか?
今回明らかになったことの2点めに関連して、いわゆる8項目の経済協力プランに基づく各種プロジェクト実施とともに、北方4島で行なう共同経済活動をてこに信頼を醸成していくことになりました。共同経済活動でお互いの信頼を高められるものでしょうか。
畔蒜:それはやってみなければ分かりません。
ただし、共同経済活動の前提となる「特別な制度」をちゃんと機能するものに仕立てることができれば、信頼につながる可能性があるでしょう。
「特別な制度」は、北方領土に対する日ロそれぞれの主権の主張を棚上げしてビジネスができるようにする環境ですね。共同経済活動に参加する日本人がロシアの法に基づいて裁判にかけられるような事態が起きれば、日本がロシアの主権を認めたことになってしまう。こうした事態を起こさないための「特別な制度」ですね。
畔蒜:そうですね。もちろん、日本の主権について譲歩しないことを示ことが非常に重要です。ただし「特別な制度」は両刃の剣です。制度の細部にこだわり、機能しないものにしてしまうと、不信感をいっそう強めることになりかねません。そう考えると、やはりロシア法がベースとなるのではないでしょうか。一から法律を制定するのは現実的ではありません。それでもそこに、日本が北方領土における日本の主権を諦めていないことを示す何らかの「フック」が仕掛けられるか否かが焦点でしょう。
これが実現すれば、ロシアが日本の主張に一定の理解を示し、他の国とは異なる対応をしたことになる。これが実現すれば、ロシアに対して日本人が抱く不信を解くことにつながるかもしれない。プーチン大統領が今回の会談に遅刻したことを非難する声が日本の国民にもメディアにもありました。これは日本が抱く対ロ不信の強さを如実に表わすものですね。先ほどお話ししたように、シリア情勢に対応するため致し方ないことだったのです。
信頼を醸成する手段は経済協力しかないのでしょうか。
畔蒜:それは重要なポイントです。安全保障面での信頼醸成もあり得るでしょう。そのために今回の首脳会談で、両国の外相と防衛相による日ロ外務・防衛閣僚協議(2+2)を再開することで合意しました。2013年11月に一度開かれて以来、実現していない状態です。2+2が再開されれば、海難救助訓練やテロ・海賊対策での協力を再開させる可能性が出てきます。
日本とイスラエルが臨む共通の地政学的環境
ロシアと中国は対米関係など協力できる部分がたくさんあります。一方、米国と同盟関係にある日本は、ロシアと協力する機会が中国ほどないのではないでしょうか。
畔蒜:日ロ間の共通項はやはり中国でしょう。これは冒頭で申し上げた日ロ関係における2つ目の面と関連します。確かに米ロ関係が悪化している状況において日ロが安全保障分野で関係を強化させることには一定の限界があるでしょう。
私は2013年10月、ロシアのパトルシェフ国家安全保障会議書記が初来日したその日、モスクワで開かれていたヴァルダイ会議に出席中で、その場セルゲイ・イヴァノフ ロシア大統領府長官に「パトルシェフ書記を日本に派遣した狙いは何か?」と質問したことがあります。
「対中国戦略だ」という回答を期待しつつ、そのような言葉が返ってこないことも分かっていました。そんな筆者の質問に対してイヴァノフ長官はおもむろに「やっと日本の銀行が極東シベリアへの投資に関心を示し始めた」と話し始めました。筆者はその示唆するところを「極東シベリア開発に日本の資金や技術を呼び込むことがロシアの国家安全保障戦略と密接にリンクしている」のだと理解しました。
私は東アジアにおけるロシアと日本、中国の関係は、中東におけるロシアとイスラエル、イランの関係に似ていると考えています。イスラエルの立ち位置にあるのが日本、イランの立場にあるのが中国です。
ロシアとイランはシリアの内戦などにおいて協力しあう関係にあります。ロシアは2007年、地対空ミサイル「S300」をイランに供与することで合意しました。これはイスラエルの安全保障に重大な影響を及ぼします。そこでイスラエルは米国と共にロシアを説得し、ロシアにこの合意を破棄させました。ちなみにイスラエルは、ロシアによるクリミア併合に対する国連での対ロシア非難決議に棄権票を投じています。米国との同盟関係よりも自国の国益を優先させた結果です。
日本も、中国に対して同様の中立を保つようロシアを説得できる関係を築く必要があります。例えば尖閣諸島の主権を巡って、ロシアが中国の主張を支持することがあれば、日本にとっては非常にやっかいなことになります。そのようなことが起きないよう、ロシアとの関係を築いておく必要がある。
米オバマ政権の反対にもかかわらず、安倍首相がこのタイミングでロシアとの関係を強するプロセスの再開に踏み切った背景には、同様の戦略判断があったとみます。今回、8項目の経済協力プランに基づいて3000億円相当の経済協力案件に日ロが調印したのは、対中国戦略の観点から非常に重要なことだったと考えています。
自民党総裁選とロシアの大統領選
北方領土問題を解決し、平和条約を締結するには信頼関係が必要というのは分かります。そして、それには時間がかかります。日ロの両政権はこの「時間」をどのようなレンジで考えているのでしょう。安倍首相は「私たちの世代、私たちの手で終止符を打たなければならない」と訴えました。
畔蒜:日ロの政権が持つ時間軸は共通している部分とそうでない部分があると思います。共通しているのは、2018~2021年が次の勝負のタイミングになるということです。
安倍首相は自民党総裁任期を3期9年に延長することを模索しています。2017年3月に開かれる自民党大会でこれが実現し、安倍氏が2018年9月に再選されれば、2021年9月まで任期が延長される可能性があります。
一方、プーチン大統領は2018年に大統領選挙を控えています。再選されれば、2024年までの任期となる。つまり、両者が再選されれば2021年まで交渉期間があるわけです。
今回の一連の対ロシア外交を通じて、「安倍首相が譲歩した」「ロシアに食い逃げされるリスクがある」との見方があります。私は「譲歩」とは思っていません。まずは2021年までをにらみ、日ロ間で信頼醸成を進める道を選択したのだと思います。同時に指摘しておきたいのは8項目の経済協力プランに基づくロシアとの経済協力は「協力」であって「支援」ではないことです。日本が一方的に援助するものではなく、日本も利益をもたらすものであると考えるべきです。したがって「食い逃げされる」という考え方はおかしい。
もちろん2021年までに、北方領土問題の解決を含む平和条約締結のために十分な信頼が日ロ関係において醸成できるかどうかは分かりません。日本が一方的に努力しても高まるものではありません。お互いの努力が必要です。トランプ次期米大統領がどのような政策を取るのか、日ロを取り巻く環境がどう変化するかも読めません。
でも、トライする価値はあるでしょう。プーチン大統領はヴァルダイ会議の場で、ロシアと中国が築いたような関係は「残念ながら日本とはそのような質の関係には達していない。しかし、だからと言ってそれができないという意味ではない。さらに言えば、日露双方とも全ての問題を最終解決することに関心があると私は思っている。というのも、そうすることが我々の相互の国益に適うからだ。我々はそれを望むし、そのために努力もする」と語りました。
日ロで共通していない時間軸は何ですか。
畔蒜:旧島民の方が高齢化していることです。日本としては、彼らの墓参りなどをなるべく早く、より容易なものにしたい。交渉を急ぎたいところです。しかし、ロシア側に急がなければならない理由はありません。
まずは2021年をにらんだ信頼醸成と、人的交流の早期の柔軟化。この間にあるギャップを埋めることが日本にとって大きな課題です。元島民のビザなし渡航制度を改善・拡充することで今回合意したのは、この意味において重要です。日本にとっては不可欠の要素でした。
お話しをまとめると、日本の対ロシア外交には、北方領土問題の解決を含む平和条約締結に関する面と、中国と対する上でロシアに戦略的中立を維持させる、という二つの面がある。前者は、国内政治の観点から、より短い時間軸で結論を出すことが求められている。後者は、より中長期的な視野で進められる。
前者について大きな進展はなかったものの、まずは、元島民のより簡素な形での北方領土訪問への道筋がついた。同時に、北方4島において、「特別な制度」の下で行なう共同経済活動に関して具体的な検討開始で合意した。
後者については、3000億円相当の経済協力案件で合意すると共に、安全保障分野で2+2を再開することで合意した。だとすると、「成果はなかった」「安倍首相は譲歩しすぎた」という批判はあたりませんね。
畔蒜:そうです。安倍首相は中長期の視野に立ち、大局的見地から正しい選択をしていると思います。瑕疵があるとすれば、今回の首脳会談に至るある時期、北方領土問題の進展に対する国民の期待を過度に高めてしまったことでしょう。
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