英国がEU(欧州連合)からの離脱(Brexit=ブレクジット)を決めた国民投票から3カ月が経った。英国とEUとの正式な離脱交渉は今も始まっておらず、政治は膠着状態が続いている。悪化が懸念された英国経済は堅調だが、先行きに対する不透明感は解消されていない。
このため、英国に拠点を持つ日本企業も動くに動けない状態にある。多くは、短期的なビジネスへの影響は限定的と見るが、離脱交渉の結果次第では長期的な戦略の見直しを迫られる可能性を否定しない。その中で動向が注目されているのが、日立製作所の鉄道事業だ。英国を拠点に約20年かけて欧州の鉄道ビジネスを積み上げ、特にここ5年で事業を大幅に拡大してきた。
2012年に総事業費57億ポンド(当時の為替レートで約7000億円)で英都市間高速鉄道計画(IEP)を受注。2015年9月には、英ニュートン・エイクリフに鉄道車両の新たな製造工場を開設した。2015年11月には、イタリアの防衛・航空大手フィンメカニカから車両製造事業のアンサルド・ブレダの買収も完了。現在、世界各国の部品メーカーなどと協力し、部品調達から車両製造までを日米欧の3地域をまたいで手掛けるサプライチェーンを構築中だ。2014年には鉄道事業の本社機能を英国に集約し、世界の鉄道市場の約5割を占める欧州での事業を広げてきた。
そんな矢先に起きた、英国のEU離脱。予想外の事態にどう向き合おうとしているのか。日立製作所の鉄道ビジネスユニットCEO(最高経営責任者)を務めるアリステア・ドーマー氏に、事業の進捗とBrexitの影響を聞いた。(聞き手は 蛯谷 敏)
アリステア・ドーマー(Alistair Dormer)氏
日立製作所執行役専務、鉄道ビジネスユニットCEO(最高経営責任者)。1963年8月生まれ。英国グロスターシャー州出身。英ブリティッシュ・エアロスペース、仏アルストムなどを経て、2003年に日立ヨーロッパ入社。鉄道部門の事業開発責任者として、英国鉄道の受注獲得プロジェクトを指揮してきた。2009年、日立レールヨーロッパ社長に就任。12年に会長兼CEO、14年に日立の鉄道事業のグローバルCEOに就任。2016年4月から現職。(写真:永川智子)
日立の鉄道事業の現状を教えてください。
ドーマー:ビジネスは非常に順調です。昨年買収したイタリアのアンサルド・ブレダは「日立レールイタリア」に社名を変更しました。同社が保有しているイタリアの車両生産工場は、日本や英国工場との人材交流も始めており、日立の鉄道ビジネスに既に大きく貢献しています。
鉄道信号システムを手掛けるアンサルドSTSとも、事業連携を進めています。我が社は、アンサルド・ブレダの買収と同時期にアンサルドSTSの買収を予定していました。残念ながら100%の株式を取得することはできませんでしたが、過半を握る最大株主になっています。
両社を傘下に収めることで、どのようなメリットが生まれましたか。
ドーマー:大きく2つあります。1つは、車両製造に必要な部品などの購買力が増したことです。鉄道システムの生産規模が拡大したことに伴い、購買において規模のメリットが出るようになりました。サプライヤーとの交渉力も増し、結果として製品に価格競争力がつきました。
その成果の一つが、今年6月にイタリアで受注した案件です。イタリアの鉄道運行会社最大手のトレニタリアから、新型2階建て車両195両を約380億円で受注しました。この案件は、今後さらに追加発注が見込める案件で、受注額は約3000億円に拡大する予定です。入札には、多くの競合メーカーが参加しましたが、最終的に我々の車両の価格競争力が決め手となり、選ばれました。
イタリア北部にある日立レールイタリアのピストイア工場
買収によるもう一つのメリットは、生産体制を世界に分散できるようになることです。来年からは、日立レールイタリアの工場でも、英国で受注した鉄道車両の生産を始めます。生産体制の負荷が平準化され、さらなる案件獲得が可能になります。生産拠点は米国などにもありますが、生産体制は日英伊を中心に展開していくことになると思います。
英高速鉄道車両も最終調整
これからの数年は、これまで受注した案件の納入が続きます。1件1件を確実に納めながら、新たな案件の獲得を目指していきます。特に英国では、2017年から英都市間高速鉄道計画(IEP)のサービスが順次始まります。現在は、納品に向け最終調整の段階ですが、トラブルなく納めたいと思います。
新規案件は、鉄道の需要が今後高まる新興国で積極的に仕掛けたいと考えています。重点地域には既に拠点を置き、現地のマネージャーが結果を出しつつあります。例えばインドでは、2015年12月に貨物専用鉄道向けの信号・通信案件を獲得しました。
9月20日から独ベルリンで始まった「InnoTrans」。日立の展示ブースは過去最大の規模となった
欧州での存在感が高まっている実感はありますか。
ドーマー:着実に高まっていると思います。9月20日からドイツのベルリンで、鉄道技術に関する世界最大の展示会「InnoTrans(イノトランス)」が始まりました。この展示会における日立の注目度はこの10年あまりで大きく変わりました。
私が日立レールの社員としてこのイベントに初めて参加したのは2004年でした。当時、日立の鉄道事業の存在感は小さく、ブースも同様に本当に小さなものでした。訪れる人もわずかで、本当に寂しかったのを覚えています(笑)。
あれから12年が経ち、今年のブースは過去最大の広さを確保しました。日立レールヨーロッパのほか、日立レールイタリア、アンサルドSTSなど日立の鉄道事業に関連する企業が揃って一つのブースに出展します。
ちなみに、今回のブースは、鉄道メーカーのメジャーである独シーメンスの向かい側にあります。彼らと勝負するぞという、隠れた意味も込めています(笑)。大きなチャレンジです。
今年6月には英国が国民投票で、EU離脱を決めました。英国に本社を持つ日立の鉄道事業への影響はありますか。
ドーマー:私を含め、英国民の半数近くは予想していなかった結果だと思います。本当にショックです。
あの時のことを今もよく覚えています。6月23日の国民投票の前、私は日本で記者やアナリスト向けの説明会に出席していました。その最後に出たのが、「英国のEU離脱はあるか」という質問でした。私は自信を持って「絶対にない」と答えましたよ。
Brexitに落胆、そのまま自宅に直帰
その後、飛行機に乗って東京からドイツのフランクフルトに戻りました。空港には24日の明け方に着いたのですが、そこでスマートフォンを見たら、「ブレーキング(緊急)ニュース」が流れてきました。英国がEU離脱を決めたと、大騒ぎになっていることを知りました。
ロンドン行きの飛行機を待つまでの間、本当に信じられませんでした。あまりにもショックだったので、その日は会社には向かわず、家に直帰しました。
短期的にビジネスへの影響はありますか?
ドーマー:ただし、現状何か変化があるかというと、まだ何も起きていないというのが実情です。「business as usual」、事業は離脱前と変わっていません。ご存知のように、英国とEUの間で正式な離脱交渉はまだ始まっていません。
我々が影響を分析するのは、交渉の具体的な論点が見えてきてからです。今はまだ、「こういう展開になったら、こういう行動をとる」といった具体的な議論をするには、時期尚早です。
もっとも、我々が国民投票の前から主張してきた趣旨が大きく変わることはありません。日立は、英国だけでなく、欧州全体でビジネスを大きくしていきたい。英国とEUの間の貿易に障壁を作るべきではありません。これは、英国に拠点を置くグローバル企業に共通する願いだと思います。
9月2日には、日本の内閣官房や外務省などで構成する「英国のEU離脱に関する政府タスクフォース」が、英国やEUに対して要望書を公表しました。
ドーマー:英国やEUがビジネス環境の維持に最大限を尽くしてほしいという日本政府の要望はとても重要だと思います。英国にとっても、日本は今後の発展に欠かせないパートナーですからね。英国とEUだけでなく、幅広い関係者が納得するような結論を、我々も期待しています。その意味で日立は、日本政府の公表した要望書と基本的に同じ立場に立っています。
要望書は、英国とEUとの間の単一市場が継続することを求めています。この要望が受け入れられない場合は日系企業が移転する可能性もあると言及しています。英国メディアがこの点を大きく報じました。日立はこの点も日本政府と同じ立場を取るのでしょうか。
今後の論点を注意深く見ていく
ドーマー:いいえ、この点は違います。我々は鉄道事業の本社を英国から移す考えはありません。現状は、英国とEUで日立のビジネスは順調に進んでいます。それに日立レールイタリアが加わったことで、我々はEU加盟国内にも生産拠点を持つことになりました。多少のリスクヘッジになるでしょう。いずれにしても、今のところ本社機能を移す理由がありません。
繰り返しますが、まだ何も見えておらず、具体的な議論を始める段階にはありません。今後、どのような論点が浮上してくるのか、注意深く見ていく必要があると思います。
Brexit前にはデービット・キャメロン首相(当時)やジョージ・オズボーン財務相(同)が日立レールヨーロッパの工場を訪問するなど、政権との距離が近かったと思います。新しいメイ首相との関係はどうでしょうか?
ドーマー:メイ首相は、とても良識のあるリーダーです。政権との関係構築はこれからですが、新政権は英国のインフラ投資の重要性について認識していると思います。
現在のフィリップ・ハモンド財務相は、運輸相時代にIEPを承認した人物です。個人的には良いスタッフが新政権に揃っていると思います。
鉄道事業が掲げている経営目標に変更はありませんか?
ドーマー:ありません。日立の鉄道事業は2018年度の目標として、売上高6400億円、受注高5803億円を掲げています。これまで通り、この目標は変更しません。
ただ、一つだけ数字に影響を与える可能性があるのは、円高による為替変動のリスクです。その意味で、Brexitに伴う円高が、今のところは目に見える影響と言えるかもしれません。
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