日本代表戦で帰国中に岡崎慎司選手(右)と久し振りに再会した黒田和生氏
スペインのリーガ・エスパニョーラ、ドイツのブンデスリーガなどとともに、世界最高峰のサッカーリーグの1つであるイングランドのプレミアリーグ。マンチェスター・ユナイテッドやアーセナル、チェルシーなど人気も実力も兼ね備えるチームがひしめくプレミアリーグにおいて、2015-2016のシーズンを制したのは、レスター・シティという日本ではあまり馴染みのないチームであり、その優勝は「プレミア史上最大の番狂わせ」というメディアも少なくない。
24万人が集まった歓喜の優勝パレードには、日本代表でも活躍する岡崎慎司の姿があった。38試合を戦ったシーズン中、36試合に出場した岡崎は、間違いなくチームの中心選手として優勝を勝ち取った。稲本潤一(現コンサドーレ札幌)、香川真司(現ドルトムント)に続く、日本人選手としては3人目となるプレミア制覇の快挙の影には、高校時代に彼を育てた一人の名将がいる。
黒田和生。いまや、全国的にも「滝二」の呼称で知られる兵庫県の滝川第二高校サッカー部の監督に就任後、全国有数の強豪校として育てあげ、岡崎慎司や金崎夢生(鹿島アントラーズ)といった日本代表クラスの選手をJリーグに送り出した。黒田氏は滝川第二高校、ヴィッセル神戸での指導職を経て、2012年に台湾(チャイニーズ・タイペイ)に渡り、現在は台湾サッカー協会のユース育成統括兼U-13/U-18代表監督として、選手指導とコーチ養成に従事している。
黒田氏に「世界のオカザキ」誕生秘話や、日本人が世界で戦うためのヒントを聞いた。
現在の職に就任された経緯を教えてください。
黒田:日本サッカー協会(JFA)が海外に指導者を派遣するという事業があります。アジアのサッカー協会から応募があるかと問いかけたところ、台湾がU-18男子チームの監督が一人欲しいという要請をしていたのです。そこで、応募しました。
自ら応募されたのですか?
黒田:はい。ほかにもブータンやシンガポールといった、いろいろなアジアの国がJFAに要請しています。現在、アジアでは10カ国くらいに派遣されています。
応募する動機は何だったのでしょうか?
黒田:ヴィッセル神戸に行く時は私も大きな決断でした。あの時は58歳でした。せいぜい60歳、定年ぐらいまで仕事をするのが普通と考えていたのですが、ちょっと強引に誘われたところもあり、58歳で滝川第二高校(滝二)を退職し、ヴィッセルに移りました。自分の中では「5年区切り」というのがあり、「5年とりあえずやろう、そうしたら次5年やろう」と決めていたのですが、ヴィッセルで5年経ったところで、ちょっと会社の方針がブレてきて、このままいても面白くないだろうなと感じるようになったのです。
そういう転機があったのですね。
黒田:ちょうどタイミングが良かったんでしょう。台湾は応募も多かったようですが、他の候補の国もラオスなど2、3あったのです。もしダメならラオスに行けばいいかと。腹は括ってました。
台湾は人気があるんですね。
黒田:親日ですしね。ラオスよりは生活レベルも高いから。
滝二の監督時代には岡崎選手はじめ、数多くの選手を育てておられます。監督が育成面で大事にしていることはどういうことでしょうか。
黒田 和生(くろだ・かずお)
1949年3月8日生まれ。岡山県倉敷市出身。 岡山県立倉敷青陵高校を卒業後、東京教育大学に進学し、選手としてプレー。その後、神戸FCコーチに就任し、同クラブの監督も務める。滝川第二高校の監督を経て、2007年にヴィッセル神戸の普及育成事業本部長に就任。2009年からはユース(U-18)監督も兼任した。2012年に台湾へ渡り、ユース育成統括兼U-13/U-18代表監督として、現在も指導にあたっている。
黒田:僕が滝二に行った理由から振り返ると、「サッカーをやめないで欲しい」という気持ちです。(デットマール・)クラマーさん(ドイツ人のサッカー指導者で日本代表の代行監督などを務めた)が言っていたのですが、ドイツでは「始めるならなるべく早く始めて、なるべく遅くまで続けよう」ということわざがあるそうなのです。このようなドイツのスポーツに関する考え方を、滝二の前に所属していた神戸FCにいたころに教わり、こういう考え方はいいなと感じたのです。サッカーをやめるなよという気持ちで、僕も少年サッカーに関わっていました。みんなやめてしまうと会費の収入が無くなって、クラブの経営的にも困るわけですが(笑)。できれば親も引き込んで、ファミリーでの活動になるようなクラブになればいいのではないかということを、ずっと考えていました。
少年サッカーに関わりながら、彼らより年上の高校生を見ていると、兵庫県のチームがみんな弱かったんです。当時、(全国高校サッカー)選手権に行っても1回戦で負ける、いいとこ2回戦だと。昔、(全国大会で最多優勝数を誇る)神戸一中とか、御影師範とか、「強い神戸」、「強い兵庫」の復活を狙っていたんです。
下の年代から上の年代のチームを見ると、「これはちょっと足りないんじゃないか」ということが見えてきます。技術が低いし、なんかやらされている気持ちでやっている。楽しそうでない。だから勝てないのではないか。少年の心といいましょうか、子供は無邪気に、一所懸命にサッカーに取り組む時、やっぱり楽しいのだろうと思います。その心を失わずに、高校で勝負したらどうなるかというのが、僕の大きなテーマの1つでした。
指導者に恵まれた高校時代の岡崎
滝二時代に岡崎選手を3年間指導されました。当時の岡崎選手のイメージを教えてください。
黒田:「サッカー大好き小僧」ですよね。サッカーに関しては無邪気で、夢があって、ボールに向かって「行くぞー」というような、サッカー大好き少年です。幸運にもそういう子がほかにもたくさんいました。だから彼も仲間をたくさん得て、心強かったのではないでしょうか。
当時の岡崎選手は夢を語っていましたか?
黒田:プロになるというのは夢だったと思いますが、あの当時、滝二に入部する子は100人中100人がプロになりたい子たちです(笑)。1つ岡崎が幸運だったのは、彼が1年生の時、荒川(友康)というコーチがたまたま滝二に来てくれました。荒川はアルゼンチンで8年間ほど修行して、アルゼンチンのプロを指導できるS級ライセンスを持っている唯一の日本人だったのです。
黒田:そのライセンスを取得して、日本に帰ってきたのが2002年のワールドカップの時。僕はその前にアルゼンチンに遊びというか、修行に行った時に現地で彼と知り合いました。彼はライセンスを取得している途中で、アルゼンチンに行って5年目くらいだったかな。取得するまで帰らないと聞いて、頑張れよと別れたのですが、本当にライセンスを持って帰ってきたのが2002年。(マルセロ・)ビエルサが監督の時のワールドカップのアルゼンチン代表チームの通訳をしながら、Jヴィレッジで合宿して、ビエルサ監督とも仲良くなっていました。そんな彼に岡崎を預け、岡崎を3年間見てもらえるという幸運がありました。岡崎は基本的な技術からメンタルなど、彼の影響をかなり受けていると思います。
岡崎選手に怒ったことなどはありますか。
黒田:怒ることはあったよ(笑)。滝二は共学だから女の子もいるし、仲良くなるわけです。彼は活発で積極的だから(笑)。それで「行き過ぎているんじゃないか」とか言った時には、ちょっとむくれたりしていましたね。お前、いい加減にしろよ、なんて言ったら「うーん、うるせーな」みたいな時もありましたよ(笑)。
ピッチの外はそうだったんですね(笑)。ではピッチの中での才能を伸ばすためのアドバイスはどういうことをされていたのでしょうか。
選手が伸びるために水をやり肥料をやる
黒田:荒川にほとんど任せていたのですが、荒川と僕が共通していた考えは、フタをするなということ。フタをしたら、樹は伸びていかない。フタがなければ『ジャックと豆の木』のように、どんどん伸びる。フタをしないで伸びる力は自分の力、時々肥料をやったり、餌をやったり、タイミングを見て水をかけたりすることは多少あっても、伸びる力は自分の力だと思っていました。
あと、荒川の偉いところは、今でこそ「リスペクト」という言葉はサッカー界で当たり前のようになったのだけど、当時から、彼はリスペクトというようなことを言ってました。例えば、僕は選手に「ああやれ」、「こうやれ」、「走れ」と、練習だといえば動くんだから、そう言った方が簡単じゃないかと思っていたのです。ですが、荒川は、「今からどうしますか?」、「やりますか? 休みますか?」と選手に聞くわけです。しかも丁寧に「どうしますか?」といった言葉で。「そんな優しい言葉遣いじゃ舐められるぞ」と思いました。命令口調の方が楽なんですよ。でも荒川はそういう語り口調でいくわけです。最初はそういう指導法を疑問に思いましたが、結局それが大事なんですよね。
「どうしますか?」と言われて選手がこっちを選ぶ、じゃあ自分から選んだのだからやらないといけない、やらざるをえない、そういう指導法なんですよね。今はいろんなサッカーの指導法がそうなっているんです。彼もそのころはリスペクトというような言葉を使ってなかったし、知らなかったはずです。でもそういう指導法がリスペクト。その後、随分経ってからリスペクトという言葉を知ることになりました。
(次回に続く)
Powered by リゾーム?