老舗刃物メーカーの貝印(東京・千代田)とインド。意外な組み合わせだが、デリー近郊の現地法人を訪ねるとさらに驚く出会いがあった。出迎えてくれたのは、流ちょうに日本語を話し、高倉健に憧憬の念を抱くラジェシュ・パンディア社長。30年以上を過ごした日本に妻子を残しての単身赴任だというインド人トップが紡ぐ言葉は、時に手厳しいが、現地でのビジネスを考える上で示唆に富む。
貝印の創業は1908年(明治41年)。刃物の町、岐阜県関市で生まれた。カミソリ、爪切り、はさみ、包丁といった日常の製品から工業用特殊刃物までを製造している総合的な刃物の製造販売業である。現在のグループ全体の売上高は約450億円、従業員は約2800人。米国、欧州、韓国、香港、中国、ベトナム、インドに現地法人を構え、その一部には工場もある。
貝印のグローバル化を推し進めたのは現会長の遠藤宏冶だ。
「私が社長になったのが1989年で、それから海外に出ていきました。米国と欧州はすでに事務所を開いていたから、中国やベトナムといったアジアの国・地域へ進出しました。そして、次はインドへ行こうと決めたのは2012年でした」

遠藤が社長になる前、グループの国内と海外の売上比率は8:2。それが今では5:5になっている。海外売り上げは3.5倍になった。
遠藤はインド進出にあたっては身近な縁を頼った。行きつけの岐阜市内のマッサージ店のオーナーに相談したのである。オーナーはインド料理店「ラサマンダ」も経営していた。遠藤はオーナーを通じて、インド人の人材を求めることにしたのである。
遠藤は何度もインドへ渡航し、デリーからのアクセスが良いニムラナ工業団地の土地を取得した。そうして、工場の建設を始めたのだが、現地法人の経営トップを誰に任せるかで頭を悩ませた。
「中国、ベトナムに進出した際も、それなりに難しかったのですが、人の管理についてはインドが最もデリケートです。特に現地法人のトップを誰にするかが難しかった。数人のインド人候補者を面接しましたが、この人ならと思えたのはパンディアさん1人でした」
インド事業を託した人物とは
貝印のインド現地法人、カイ マニュファクチュアリング インディア(以下、カイ インディア)のオフィスはデリーから車で50分離れたグルガオン(グルグラム)にある。グルガオンにはスズキの工場があり、またデリー国際空港にも近いので、日本企業のオフィスが多い。
カイ インディアのマネージングディレクターで、事実上のトップが西部グジャラート州出身のパンディアだ。2016年から同社の経営に参画し、売上高を10倍に伸ばし、従業員数を十数人から292人に増やした。貝印のインド事業を軌道に乗せた人物である。

パンディアは1956年生まれ。高校生の時、日本をテーマにした映画を見てから興味を持ち、80年に来日した。東京日本語学校(長沼スクール)に通った後、83年から10年間、大阪の貿易商社でファッション衣料・グッズの並行輸入に携わる。その後、この貿易商社の駐在員として米ロサンゼルスで暮らした。
日本に戻ってからは仏小売りチェーン、カルフールのマーチャンダイザーを務めたほか、学研グループに勤務した。2015年、知人から「貝印のインド法人を経営してみないか」と誘われ、三十数年ぶりにインドで働くことを決意した。
奥さんは日本人。日本語は関西弁も含めて読み書き、会話ともにできる。そして、普通の日本人よりもボキャブラリーは豊富だ。パンディアが憧憬する日本人は高倉健だ。高倉健のような高潔な人間だけが日本人の名に値すると信じている。それくらい、日本と日本人を高く評価している。
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