エキサイトホールディングスは2023年4月19日、東証スタンダードに上場した。エキサイトは老舗インターネット企業の一つで、米エキサイトの日本法人として1997年に生まれた。2004年には旧JASDAQ(ジャスダック)に上場。2018年にXTech(クロステック、東京・港)がTOB(株式公開買い付け)を実施し、上場廃止となった。その後、2020年10月には現在のエキサイトホールディングスに商号を変更し、純粋持ち株会社へ移行した。今回、「エキサイト」として2度目の上場となった。

インターネット黎明(れいめい)期、最初のエキサイトを率いていたのが山村幸広氏だ。2001年に本国のエキサイトが経営破綻する中で、エキサイトのブランドを死守。Yahoo! JAPANを除いて群雄割拠状態だったポータルサイトの中で、旧エキサイトを上場へと導いた。

現在、山村氏は「lastmessage(ラストメッセージ)」というデジタル遺言サービスを手掛けるパズルリングを2014年に設立し、起業家として活躍を続けている。山村氏の歩みを振り返りながらエキサイトの歴史をひもときつつ、51歳で起業の選択をした理由について話を聞いた。

(聞き手は日経ビジネス電子版編集長、原隆)

山村幸広(やまむら・ゆきひろ)
山村幸広(やまむら・ゆきひろ)
1963年生まれ、京都府出身。1986年トランスコスモス入社。97年同社取締役を経て、同年ダブルクリックを設立して社長に就任。2000年米エキサイトの日本法人の代表に就任した。2008年にグラムメディア・ジャパンCEO(最高経営責任者)兼米グラムメディアのバイスプレジデントに就任。14年にパズルリングを設立した。現在はスクウェアエニックスホールディングス社外取締役などを兼任している。(写真=的野弘路)

エキサイトが5年ぶりに2度目の上場です。山村さんは1999年にエキサイトの日本法人責任者、2000年に社長に就任しています。その後2004年には旧ジャスダックに上場させています。

山村幸広社長(以下、山村氏):少し昔話になりますが、僕がエキサイトの社長になった経緯からお話ししますね。もともと、僕はトランスコスモスの事業企画に在籍していました。インターネット関連で最初に扱ったのは「MOSAIC IN B BOX」というブラウザソフト。当時は今のように簡単にインターネットに接続できる時代ではありませんでしたから、必要なソフトウエアをパッケージにして日本語のマニュアルをつけて販売していたんですね。価格は約2万円。それでも月に3000~4000本は売れていました。

 その後、米リアルネットワークスが開発した音楽再生プレーヤー「RealAudio Player(リアルオーディオ・プレーヤー)」を取り扱うことになりました。そのとき、本国の社長が「インターネット広告を出せ」と言ってきたんです。当時は「インターネット広告」という言葉自体が存在していなかった。半信半疑で当時主流だったブラウザー「Netscape(ネットスケープ)」に広告を出してみたところ、一気に売り上げが伸びました。

 「これからはネット広告の時代だ」と思い、1年ほどかけて調べ、米ロサンゼルスや米ニューヨーク、米ボストンなど現地に設立されていたネット広告会社を見て回りました。「ダブルクリックという会社が1番良さそうだ」という結論になり、トランスコスモスが契約してダブルクリックの日本法人をつくりました。社長をやる人が見つからなくて、当時のトランスコスモス社長の指名で社長に就任したのが僕が34歳の時です。そこからネット広告の世界に入っていくことになりました。

 当時の電通が発表した資料によると、日本のネット広告費は96年が約10億円、ダブルクリックができた97年が約40億円、98年が約110億円でした。2021年は2兆7052億円ですから、本当に黎明期でしたね。

 ダブルクリックの社長に就任して1年ほどたった頃でしょうか、利益が出るようになったため「トランスコスモスの事業企画へ戻ってこい」と言われたんです。でも、すでにネット広告やメディアへの興味が抑えられなくなっていた僕としては不本意でした。もっと続けたかった。戻ってしまえばほかの仕事も振ってきてしまいます。結果、98年末に退職することにしました。ちょうどその頃、エキサイトが日本法人の代表を探していたため、99年1月に就任することになりました。

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