(前回「老化は止められません。だから介護は『撤退戦』です」から読む)

小食・低カロリーによる筋肉の衰えで転倒・骨折・肺炎を起こして入院。入院でさらに筋力を失ってがっくり衰えてしまうのが日本人の大半の人生の終盤。「年をとったら高カロリー、高タンパクの食生活に切り替えて、最後まで元気に」というのが、佐々木先生の主張だ。
小食・低カロリーによる筋肉の衰えで転倒・骨折・肺炎を起こして入院。入院でさらに筋力を失ってがっくり衰えてしまうのが日本人の大半の人生の終盤。「年をとったら高カロリー、高タンパクの食生活に切り替えて、最後まで元気に」というのが、佐々木先生の主張だ。
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 前回、佐々木先生から「下り坂を楽しむ」というキーフレーズをいただきました。親の介護は、人生の山を下りながらあちこち寄り道をする親の姿を、そっと見守るような気持ちでやるのがいい、と。そして、高齢者はハンバーガーや餃子などもぱくぱく食べてカロリーとタンパク質をしっかり取ることで、下り坂が緩やかになるわけですね。

医療法人社団悠翔会理事長・診療部長 佐々木 淳さん(以下、佐々木):そうそう(笑)。

NPO法人となりのかいご代表 川内 潤さん(以下、川内):でも、多くのご家族は、「坂道で転んだら」「喉が渇いたら」と先回りして心配して、下山を仕事のようにしてしまう。なんなら、逆に山を登らせようとする。これは爆笑問題の太田光さんとお話ししたときに出た話題なんですが、やっぱり私たち日本人は「死生観」を持つことを避けがちなのではないかなと思います。だから、老いや自然な死を、負けとか、終わりとか、ゲームオーバーとか、ネガティブに捉えてしまう。(「『ああ、母はこう死ぬのか、見事だ』爆笑問題・太田光さん」)

 どんなふうに死んでいきたいか、と考えるのは、普通、怖いですからね。

川内:ということなんだけど、でも死というものがあるから、むしろよりよく生きられたりとか、「じゃあ、今日、何しようか」と考えられるんじゃないかなと思うんですけど。

 介護に携わってきた川内さんも、在宅医療の専門家である佐々木先生も、「人の死」は、いやというほど見てこられたと思うんですが。

人の死を見ないふりで生きてきた

佐々木:自分の存在が消えるって、誰も経験したことがないですからね。亡くなる前に痛い思い、つらい思いをするんじゃないか、苦しいんじゃないか、といった漠然とした恐怖があると思うんです。それに対して我々日本人は、見て見ぬふりをしてきたというか、「最期は病院にお任せ」してきました。

医療法人社団悠翔会理事長・診療部長 佐々木 淳さん(写真:大槻 純一)
医療法人社団悠翔会理事長・診療部長 佐々木 淳さん(写真:大槻 純一)

 人間は、当たり前のことですが、生きて、弱って、死んでいくという生き物の宿命の中で生きている。でも、弱って死んでいくというプロセスを、医療でもしかしたら延ばせるんじゃないか、という発想が生まれて。

 病院が「死」を引き受けたことで、そこに治療の期待が生まれるし、プロセスが分かりにくくなりました。かく言う私も、病院以外で看取ったことはありません。

佐々木:もちろん、寿命が延びることはいいことだと思います。だけどその結果、最期を病院で迎える人が7割ぐらいいるんですよね。

 助かるかもしれない病気で、頑張って闘って亡くなる、というなら分かるのですけれど、95歳とか100歳とかで誤嚥性肺炎(気道に食物が入ることが原因で起きる)になるというのは、これはもう病気というよりは、高齢で喉が食べ物を区別できなくなっているということではないのかなと思います。病院に行って抗生剤を点滴したら、炎症反応は下がるけどそれは「治った」ことにはならないでしょう、と。

 うーん。

佐々木:「人間は弱って死んでいく」というプロセスを、たぶん、近年の日本人は学ぶ機会がない。だから、考える機会も材料も乏しい。

 この仕事をしているせいなのか、生きる、死ぬ、というのはすごく広い概念だと感じます。死への恐怖は、物体としてこの世から消失してしまうということに対する恐れだと思いますが、モノとして存在すれば生きていて、消滅すれば死なのか。日本語には「気」に絡んだ言葉はすごく多いですよね、気配とか、気がいいとか悪いとか。見えないものに対するリスペクトというか、そういうもの存在を前提にする感覚があって、「ご先祖様が見ている」みたいな。

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