※前回はこちら→「「お父さんは認知症?」父の答えは「ヤマモトハツエ?」」
『おやじはニーチェ』は介護の本ではなく、認知症をテーマにした本、だとノンフィクション作家の髙橋秀実さんは言う。つまり、お父さまが患った認知症について、髙橋さんは哲学をヒントにあれや、これやと考えたのだ。そんな髙橋さんの“認知症”についての見解も、非常に興味深いものでした。(司会は編集Y)
「本当の親孝行って何だろう?」と自分の頭で考える
『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』は、古今東西の哲学を背景に認知症のお父さんの発言を読み解こうという、空前の介護本なのですが、この該博な知識をお持ちの髙橋秀実さんに、「親孝行」の定義をお聞きしてもいいでしょうか。
NPO法人となりのかいご代表・川内潤さん(以下、川内):『親不孝介護』を主張する私たちとしては気になります(笑)。

髙橋:親孝行というのは儒教の考え方なんです。儒教の『礼記(らいき)』という教典を読んでみると、ほとんどが親の葬儀の指南です。つまり親をきちんと見送ることが親孝行なんですね。特に注目すべきは「身は父母の遺體なり」という一節。普通、遺体って死体のことですが、自分のこの身こそが父母の遺した体だというんです。いってみれば父母の形見。自分の体を大切にすることが親孝行であって、介護する側の子どもが親孝行だと思って無理をして倒れてしまったら、それこそ親孝行どころではない。
川内:そうですよね。
髙橋:子どもが親のために何もしなくても、親は許してくれるような気がします。介護なんかしない子どものほうが、かわいがられたりするじゃないですか。介護云々より、親より長く生きることが親孝行なんじゃないですかね。
川内:「本当の親孝行って何だろう?」ということを、自分の頭で考えてみた人というのがどのくらいいるのだろうかと。みんなと同じことをするのに注力している方が多い。でも、それぞれの家族関係は異なるじゃないですか。
髙橋:私の父のようにボケているのかとぼけているのかわからない人もいれば、立派で威厳のある人もいるし、きちんと生活設計を立てる人もいますしね。
川内:ならば、家族にはそれぞれの距離感があっていいのに、世の中のステレオタイプに合わせようとする。
前回出た「死に目」へのこだわりも「最期の瞬間は、やっぱり手を握って涙をこぼして……」でありたい、と願っているからでしょうね。
川内:私はそういう「人に合わせる」ことで考えることを放棄するのが怖いと思うんです。『おやじはニーチェ』を手がかりに哲学を学んで、もっと考えたほうがいいかもしれないですね。
髙橋:いや、それはやめたほうがいい(笑)。あくまで一つの例として読んでいただければと思います。誰もがそれぞれ一つの例ですけど。
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