本連載ではこれまで、観光戦略において「数」だけではなく「質」も追い求めていく各地の取り組みを紹介してきた。新型コロナウイルス禍の前まで順当に数を獲得してきた観光地においてもそれは同じ。さらに魅力を高めて持続可能な発展を目指すうえで、広島や江ノ島で進んでいるのが、“夜”の時間帯を生かす戦略だ。

 「私はフィンセント。ここの住人の1人だ。……今宵(こよい)、私は君たちを導く伝道師となろう」。タバコのパイプを手に、口を囲むひげが印象的なフィンセント・ファン・ゴッホに扮(ふん)した役者が、夜の美術館内へ来館者をいざなう。

 これはひろしま美術館(広島市)が2021年4月から、「ひろしまナイトミュージアム」と題し、月に2回程度開いてきた夜間イベントの一コマだ。広島を拠点に活動する「劇団 グンジョーブタイ」の劇団員らが、ゴッホをはじめとする展示作品の作者に扮し、学芸員が監修した脚本に沿って演劇仕立てで作品を解説してくれる。参加者はウェルカムドリンクを片手に、神秘的な夜の美術館で繰り広げられるストーリーに没入していく。

ひろしま美術館の夜間イベントでは、ゴッホなど同館収蔵作品の作者に扮した劇団員が演劇仕立てで作品を解説していく(提供:エクスペリサス)
ひろしま美術館の夜間イベントでは、ゴッホなど同館収蔵作品の作者に扮した劇団員が演劇仕立てで作品を解説していく(提供:エクスペリサス)

 通常は一般的な美術館と同様に午後5時で閉館するが、同イベントは同8時ごろまで開かれる。料金は6000円ほど。昼間の一般入館料のおよそ5倍と、かなり強気の設定にもかかわらず、倍率は10倍に上ったほどの人気企画だ。22年9月末までに約30回開催され、延べ約500人が参加したという。

 22年からは同館で日本画版の企画も展開。広島県立美術館(同市)でも演劇型の夜間鑑賞会が開催されている。このほか、広島随一の繁華街「流川」(同市)を舞台に、参加型の演劇を通じてバーで地場の酒を楽しめるナイトツアーも実施されている。

 広島県は県内観光産業の課題として「夜間帯の消費額が少ない」「関西圏や北九州圏からの来訪者は日帰りが多く、単価が上がりにくい」といった点を挙げる。

 広島県観光連盟によると、同県への観光客のうち、宿泊せず日帰りする割合は18年時点で9割近く。全国平均(観光庁「旅行・観光消費動向調査」)の48%を大きく上回る。

 つまり、夜間のコンテンツをうまく活用して客の滞在時間を延ばせば、宿泊や買い物などにお金を落としてもらう機会を増やせる。実際、ひろしま美術館や広島県立美術館にほど近い高級ホテル「リーガロイヤルホテル広島」(広島市)が、同企画の鑑賞券付き宿泊プランを発売するなど、滞在時間の延長を図る動きも出ている。

 開館時間を延長し、夜しか味わえない体験を提供する。その希少価値や特別感の分だけ、客も普段より高い料金でも満足できる――。広島で進む「夜の活用」は、既存のコンテンツの持つ魅力をさらに引き立てる有力な選択肢になり得る。

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