現代自動車が掲げる「メタファクトリー構想」

産業用メタバースへの取り組みが今、最も進んでいる業界の1つが自動車メーカーだ。

 自動車の開発には巨額のコストと時間がかかる。新しい工場を建設する場合、建設する国や規模にもよるが、初期投資だけでも数百億円~数千億円の資金が必要だ。昨今はEV(電気自動車)化や自動運転、MaaS(次世代移動サービス)など、従来とまったく異なった価値観、新しい付加価値のある製品が求められている。製品のコンセプトだけでなく、新しい製造手法の確立も急務になっている。

 ここで注目されるのが、生産ラインのシミュレーションである。メタバースを応用できれば、より効率的な生産ラインの構築が短時間で可能になる。むろん工場の建設コストも抑えられる。巨額の費用と長い時間が必要だった工場建設の概念を根本から変える可能性を秘めている。

 例えば、独BMWグループはデジタルツインによる生産ラインの設計やインテリジェントロボットによる資材流通の改善などに取り組み始めた。

 独シーメンスと日産自動車は、日産の新型EV「アリア」の生産ラインの立ち上げで連携。シーメンスはこれを足がかりに、工場1棟をまるごと仮想空間に再現するメタバース工場の構築を提案していく考えだ。

 このように、メタバースの応用が進みつつある中で、それをさらに超える「メタバース工場」とでも呼ぶべき取り組みがすでに始まっている。

 メタバース工場のトピックとして大きな話題になったのは、韓国の現代自動車が2022年1月に開かれた世界最大級のテクノロジー見本市「CES」で発表した「メタファクトリー構想」である。

 この構想では、ロボットやAI(人工知能)、VRプラットフォームなどを使ってデジタルツインを構築する。シンガポールにある同社のR&D(研究開発)拠点HMGICS(現代自動車グループ・グローバル・イノベーション・センター・イン・シンガポール)がリアルタイム3Dとオペレーションのプラットフォームとなる。同社は米国のユニティ・ソフトウエアと提携、スマートマニュファクチャリングやAIトレーニング、自動運転シミュレーションなどを行う予定だ。

 さらに、このメタファクトリーはユーザーに対し、VRを通して自社のサービスやCX(顧客体験)を提供する場にもなる。ユーザーはメタバースを通してテストドライブやトラブル対処法を体感できるなど、実際の自動車ディーラーや修理工場に足を運ぶ前に知識と体験を得られる仕組みになっている。

 自動車産業は市場規模が大きく、裾野も広い。関連企業や協力会社、下請け企業で働く人の数も多い。自動車の生産・開発でメタバースを本格的に活用することで、製造業全体のモノづくりも大きく変わる可能性がある。

時空を超越したモノづくりが働き方を変える

 これまでに紹介した事例や産業界で具体的に取り組んでいるメタバースによる生産変革は、デジタルツインを中心とした「世界創造」の領域に限定されている。ベイカレントは創造された仮想世界と現実世界との懸け橋になるのは「人間拡張」であると考えている。世界創造と人間拡張が両輪となることで、産業用メタバースも次のステージへ進化する。

 人間拡張の要素技術として産業界で期待されているのが、これまでのテレイグジスタンス(遠隔存在)とハプティクス(触覚再現)の融合などだ。これらが活用されるようになると、これまでの製造業の在り方が抜本的に変わる可能性がある。

 例えば、製造業における従来の生産方式は、多くの従業員が工場という同一の場所に決められた時間に集まって働くことが前提となっていた。メタバース工場が実現すると、「工場型労働」というべきこの前提がなくなる。

 メタバース工場の従業員は、世界中のあらゆる場所から仮想世界を通じて、リアル工場にいるときと同じように働くことができるようになる。工場立地や通勤の概念が極めて薄くなり、労務オペレーションや採用の考え方もまったく変わることになるだろう。

(C)2022. BayCurrent Consulting, Inc.
(C)2022. BayCurrent Consulting, Inc.
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 さらにメタバース工場では、限られた熟練工が持つ特別な技能を簡単かつ短時間で保存、他者と共有することができるようになる。その結果、熟練のスキルを持ったアバター(分身)を自由に生み出し、好きなように配置できるのだ。企業は従業員個人が持つ経験やノウハウに対する評価・報酬の考え方を再考する必要が出てくるだろう。

 近未来の生産現場では従業員の通勤がなくなり、技能習得の場所や時間も限定されない。そのうえ、作り出される製品の品質向上や生産時間短縮の可能性も高まるのだ。働く人々と企業の関係性も大きく変わっていくはずだ。

 メタバースは、現在進められている仮想世界の創造に人間拡張が加わることで、その影響が現実世界にも溶け出し、多くの人々の生活を変える。

 ベイカレントでは、人間拡張技術の実用化にめどが立ち始めるのは30年ごろになると予想している。それまでは、仮想世界の中でできることを試行錯誤しつつ、来るべきメタバース・シンギュラリティーの時代に備えた取り組みも始めておくべきだろう。

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