みずほは、第一勧銀、富士銀、興銀という3つの国内トップバンクが統合して発足した。世界の五指を目指した「強大な銀行」の実態は、経営危機をなんとか切り抜けた3行が合わさった巨大な寄り合い所帯にすぎなかった。発足当時の様子を、『みずほ、迷走の20年』より抜粋のうえ紹介する。

「世界最大の銀行」に

 1999年8月20日、帝国ホテル「富士の間」には200人を超す経済記者が殺到した。第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の3つの国内トップバンクによる経営統合の記者発表が予定されていた。登壇したのは、興銀の西村正雄頭取、第一勧銀の杉田力之頭取、富士銀の山本恵朗頭取の3人だった。

 「今般の統合で資産規模では世界トップになりますけれども、資本力や収益力、金融技術、顧客サービス力、そういう面で世界の五指に入ることを目標としてまいりたい」。西村氏は記者会見でそう強調した。

 3行の経営統合によって、新銀行の合計総資産は140兆円に増大する。当時としては、米投資銀行のバンカース・トラストを買収したばかりのドイツ銀行を抜いて、世界最大の銀行が誕生することになっていた。英フィナンシャル・タイムズは「日本の銀行業界の再編は、ギアが1速から突如として5速に入ったようだ」と論評している。

 興銀最後の頭取となる西村氏は神奈川県藤沢市にある湘南高校から東大法学部に進み、55年に興銀に入行している。元外相の安倍晋太郎は異父兄であり、甥(おい)は安倍晋三元首相という家柄だ。金融自由化によって興銀などの長信銀は特権を次々と失っており、商業銀行との統合で規模の利を追って生き残るというのが西村氏の結論だった。

 第一勧銀の杉田氏は東大経済学部から66年に第一勧銀になる前の日本勧業銀行に入行している。第一勧銀は97年に発覚した総会屋不正融資事件によって当時の近藤克彦頭取が引責辞任。杉田氏は改革派の中堅幹部「4人組」に担ぎ出されて54歳の若さで頭取に就任した。第一勧銀は歴代トップの多くが第一銀行出身者だったこともあり、少数派に属していた杉田氏は銀行合併による組織融合の難しさを最も知っていた1人といえる。

 59年に東大経済学部から富士銀に入った山本恵朗氏は、86年には米シカゴにある金融子会社に出向している。大手米銀のIT投資の力を見抜いており、3行統合で「米銀並みの投資力」を目指していたのは山本氏だ。同氏は97年に早々に第一勧銀に統合を打診するなど、金融界きっての合併再編論者でもあった。

 山本氏は統合記者会見で「IT投資でフロントランナーになりたい。最初の2年で国内での収益力を十分に高め、国際銀行として再びプレゼンスを高めたい」と強調した。杉田氏は「3行が単純に合併すれば巨大な象が生まれて右足が左足を踏みつけて倒れてしまうかもしれない。持ち株会社方式であればそれぞれ独自のカルチャーを持つ金融機関が生まれる」と述べた。いずれの発言も、今となっては何とも皮肉なトーンとなって聞こえてくる。

みずほには発足当初から暗雲が垂れ込めていた(写真:shutterstock)
みずほには発足当初から暗雲が垂れ込めていた(写真:shutterstock)
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