私自身は、この官民共創については世間よりだいぶ前に経験を重ねてきた。市議会議員に初当選した頃、横浜市は改革派の市長の下、官民連携や官民共創への取り組みを熱心に進めていたからだ。今でこそ、官民共創で解決し、ビジネスとして成長させていく方向性が打ち出されているが、当時は官民連携や官民共創といっても、民間企業から見れば、ビジネスを展開できる領域には見えなかった。

 今振り返れば、横浜市はこの分野のリーダー的な存在だったわけで、その現場の悪戦苦闘を議員という立場から支えたということが私にとっての財産でもある。私自身も在職時に、公園を不動産に見立てて稼ぐ仕組みを提案したり、横浜スタジアムの改修費85億円をゼロにするための条例改正を手掛けたりと、実績も出してきた。いずれも、私のユニークなアイデアというよりは、海外の事例を学ぶ中で浮かんだものだが、日本ではこのような事例はまだ乏しく、伸びしろのある領域である。

 なぜ官民共創が必要なのか。背景には行政が置かれている厳しい状況がある。社会課題が複雑になり過ぎ、行政だけでは解決が難しくなっているのだ。民間企業の力を借りる大きなうねりが生まれ始めている。一方、企業サイドにもSDGs(持続可能な経済目標)やESG(環境・社会・企業統治)投資といった企業の経営環境を取り巻く変化の波が押し寄せている。事業性と公益性の両立がより強く求められており、企業も発想を変えていかなければいけない状況に直面している。

「無謬性の原則」のジレンマ

 読者の皆さんは「無謬(むびゅう)性の原則」という言葉をご存じだろうか。政策をつくる立場の責任者は成功させることだけを考え、失敗した場合のことを考えてはいけないというものだ。これは市民からすれば「(行政は)失敗しない、失敗してはいけない」という思い込みにつながる。あまりにも無意識のうちに、当たり前のように刷り込まれているこの感覚は一体、どこから生まれるのだろうか。

 受験に失敗したり、就職や転職がうまくいかなかったり。自分の人生さえ思うままにならないことが多いのに、なぜ行政運営は失敗してはならないと思うのだろうか。これは考えれば考えるほど、不思議だ。預かった税金で実施することだから、万が一にも失敗はできない、仮に失敗だとしてもそれを失敗とは認められないということだろうか。

 ある日、夕方の情報番組を見ていたら「危機! 全国で水道管破裂相次ぐ」という特集が報道されていた。耐用年数の40年を超えた水道管が全国に約10万キロメートルもあり、それはすべての水道管の約6分の1に相当するという。全国で発生する漏水・破損事故は年間2万件以上にも上ると、センセーショナルに取り上げられていた。この番組が放送されたのは18年11月のこと。もう3年半も前だ。

 だが、何か天災があったわけではないのに、ある日突然水道管が破裂する、道路が陥没する、豪雨で橋梁が流されるといったニュースを見ることは珍しくなくなった。もし、行政が「本当に」失敗しない組織なら、こんなことは起きないはずだ。

 極めつきは、新型コロナウイルスへの対策だ。10万円の特別(定額)給付金しかり、ワクチン接種しかり。新しい打ち手を出すたびに現場は混乱し、疲弊した。

 ここで言いたいのは、行政が、公務員が仕事をしていないということではない。むしろ、その逆だ。社会課題があまりにも複雑化、多様化し、行政だけではなんともならない時代に突入している。無謬性にがんじがらめになっていたら、これからはもっと失敗が増えていくであろうし、その失敗をあれこれ理屈をつけて体裁を取り繕う構図は限界を迎えている。