ゾルゲに憧れていたプーチン
「高校生の頃、ゾルゲのようなスパイになりたかった」
そう述べたのは、他でもないプーチン大統領です。子どもの頃、プーチン少年はKGB(国家保安委員会)に憧れ、KGBレニングラード支局に行って、「KGBに入りたい」と言ったといいます。その際、応対した職員は、「KGBに入りたければ、以後二度とKGBに入りたいと言ってはいけない。KGBはKGBに入りたいという人間は採用しない。大学の法学部に入り、いい成績を収めれば、KGBの方から接触する」とアドバイスしたというのです。
アドバイスを受けたプーチン少年は猛勉強してレニングラード大学法学部に入り、いい成績を取ったところ、正体不明の男が接触してきたといいます。夢がかなったのです。プーチンは大学卒業後、KGBに入り、東ドイツで諜報(ちょうほう)活動を行います。
日本で国家安全保障局局長を務めた北村滋さんは、プーチンに会った際に「同じ業種の仲間だよな、君は」と声をかけられたそうです。これは北村さんが外事警察、つまり国内のスパイ活動や外国勢力を取り締まる職歴を持っていることを知っていたからでしょう。 プーチン大統領はまさに「大統領に上り詰めたスパイ」であり、大統領としての職歴の方が長くなっても、プーチン自身は今も政治家ではなくスパイであることこそが本質だと考えているようです。
そのプーチンが憧れていたというスパイ・ゾルゲとはどんな人物だったのか。スパイの話をするためには、やはりゾルゲから始めなければなりません。
スパイ・ゾルゲことリヒャルト・ゾルゲは、戦前の日本で活動したスパイです。実際は赤軍参謀本部(現在のロシア連邦軍参謀本部情報総局・GRUの前身)所属でありながら、ドイツ紙の記者を装って情報活動に従事し、元朝日新聞記者で日本政府に幅広い人脈を持っていた尾崎秀実と組んで日本でソ連のための諜報活動に従事。日米開戦前の1941年にスパイであることが露見し、尾崎とともに処刑されました。
尾崎秀実の協力を得て、日本国内に諜報網を形成したゾルゲの最大の功績は、戦時中の日本軍が、ロシアを攻める「北進」ではなく、フィリピンやインドネシアに進出する「南進」を取り、日本が対米開戦を決意するとの情報をいち早くロシアのスターリンに送ったことでした。しかもこの日本政府の「南進の決意」自体に、ゾルゲの指示を受けた尾崎の働きかけの影響があったとも言われています。
また、ドイツ人記者を装って在日ドイツ大使館に出入りし、オットー独大使に取り入りました。ドイツの公文書を自由に閲覧し、1941年のドイツのソ連侵攻計画をモスクワに送信しています。当時日本はドイツと同盟を組んでいましたから、日本で手に入るドイツの情報には価値があったのです。
ゾルゲがオットー大使に接近できたのは、オットー夫人とゾルゲが以前からの知り合いだったからですが、夫人とは男女の関係にあり、ゾルゲは二重の意味でオットー大使を裏切っていたことになります。しかしオットー大使はそうしたことに全く気づかず、ゾルゲがスパイ容疑で摘発された際には「まさか!」と狼狽したそうです。
ゾルゲは、日本で諜報網を張り巡らせて得た極秘情報をオットー大使にも伝えていました。これで大使の信頼を獲得していたのです。日本そしてドイツに関する情報を得たゾルゲは、自宅から無線機でソ連に情報を送っていました。
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