リスクに敏感で、周囲を次々に粛清
その上で、ドラマでも描かれますが、頼朝が「直感」に任せて最終的な判断をしたのだろう、ということは容易に想像できます。当然、一般的に直感には、本人の性格、過去の経験や学習、周囲の状況、心理的なバイアスなど様々な要因が働きます。その結果としての頼朝の直感には、今日で言う「リスク管理」がよく働いているのが特徴です。
たしかに平家に対する旗揚げは、イチかバチかの賭けのようなものです。しかし、以仁王(後白河法皇の皇子)と源頼政による平家打倒を目指した挙兵のあと、全国の源氏に対し平家の手が伸びてくることは必至の状況で、旗揚げする以外、ほかに選択肢はなかったようです。
また、石橋山の戦いで惨敗した際は、当時は平家方で、のちに頼朝に従う梶原景時による「見て見ぬふり」などもあり、生き残って安房(房総半島先端部)に脱出できたことなど、幸運に助けられたのも事実です。だからこそ神社・仏閣を大事にしたと思われます。
こういう命の危険に直面した経験があったからでしょう。富士川の戦いで平家軍に大勝利したあと、西進せずに足場である坂東を固めることに注力し、先に上京した木曽義仲が畿内西国の飢饉(ききん)や朝廷との軋轢(あつれき)で疲弊していく様子を見ながら、「後手」で必勝パターンをつかむなどしました。
平家滅亡(1185年)に続いて、弟の義経を討ち、また義経をかくまったことを理由に奥州藤原氏も倒し(1189年)、全国の武家の棟梁(とうりょう)となります(征夷大将軍任官は1192年)。この間、平清盛の愚を繰り返さないよう、朝廷とはなるべく穏便に、しかし守護・地頭など、武家政権の「実」はしっかり獲得していきます。
しかし、その過程で頼朝は、上総介広常はじめ有力御家人を粛清し、弟の範頼を流罪に処する(のちに死亡。殺害説も)など、身内を含め将来にわたる禍根を絶つ姿勢を鮮明にします。
結果として、1199年52歳で亡くなったあと(死因は不明)、あまりに周囲を粛清しすぎたためか、源氏を積極的に支えようという機運は盛り上がらず、頼朝直系の将軍は、頼家、実朝と三代で滅びてしまいます。リスク管理が行き過ぎたと言うべきでしょうか。
この点、日本史上最も「リスク管理」に長(た)けていた武将は、徳川家康だと思われます。何といっても15代、260年余続く江戸幕府を築きましたから。
[日経BOOKプラス 2022年11月8日付の記事を転載]
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