本連載の最後は、ディー・エヌ・エー(DeNA)の岡村信悟社長兼CEO(最高経営責任者)に聞く。総務省の官僚からIT(情報技術)企業へと転職し、横浜DeNAベイスターズ社長に就任。自ら指揮した横浜スタジアムの大改修は新型コロナウイルス禍での逆風を跳ねのけた。今シーズンは過去最多の3万2000人超のファンが訪れた試合もあり、ほぼ満席になっている。横浜市民を巻き込む球場づくりは着実に成果をあげ、現在はゲーム事業からスポーツやヘルスケアまで会社全体の成長策を練る。官僚が民間で輝くための条件はどこにあるのか。

■特集のラインアップ
#1 霞が関人材クライシス 若手官僚はなぜ辞めるのか
#2 脱「ブラック霞が関」へ 見え始めた働き方改革の成果と課題
#3 「個の犠牲」に頼らない霞が関を 立ち上がる民間出身官僚
#4 河野太郎氏「霞が関に人材が集まらないことの実害は出始めている」
#5 官僚だってやりたい仕事がある 2割の時間を「本業外」に
#6 40代官僚「同窓会で給料の話になったらトイレに」 覆面座談会
#7 日本の食糧問題を伝えたい 官僚YouTuberが挑む「ゆるい広報」
#8 メルカリ指数、仕掛け人は経産OB 官僚の「調整力」は企業で光る
#9 ベイスターズ再始動は「霞が関での経験が生きた」 DeNA岡村社長(今回)
[関連動画]特集を担当記者が3分で解説「校了乙」
 

岡村信悟氏
岡村信悟氏
東京大学大学院(人文科学研究科)修了、1995年に郵政省(現・総務省)入省。首相官邸などを経て2015年、総務省情報流通行政局の郵政行政部企画課企画官。16年4月、ディー・エヌ・エーに入社して横浜スタジアム社長、同年10月には横浜DeNAベイスターズ社長にも就任。17年7月にディー・エヌ・エーの執行役員兼スポーツ事業本部長、19年4月に常務執行役員兼COO(最高執行責任者)、21年4月から社長兼CEO。横浜スタジアムの取締役会長も務める。(写真:遠藤素子)

日本ではまだ官と民でキャリアを行き来できるようなパスが少ない状況です。岡村社長は総務省の郵政行政部企画課企画官から、2016年に横浜スタジアム社長、横浜DeNAベイスターズ社長に就任しましたが、何が決め手となったのでしょうか。

岡村信悟DeNA社長兼CEO(以下、岡村氏):ずっと官僚を続ける予定で何度も断り続けたのですが、(DeNAの)南場智子会長の熱意に最後は引かれました。

 2006~07年の第1次安倍内閣で私は(首相補佐官室参事官補佐として)仕事していましたが、07年夏の参院選をきっかけに当時の政権は終了し、私は9月に総務省へ戻りました。しかし、省内の人事異動は毎年6~7月ですから、9月に復帰すると宙に浮いている状態です。

 自らやるべきことを探す中で社会情勢を見ていると、DeNAが手がける携帯電話ゲーム「モバゲー」が流行していました。ただ、ゲームでの出会いをきっかけとした事件が起き、特に未成年のインターネット利用を規制すべきかどうかという議論が持ち上がっていたのです。

 当時は「子供のSNS(交流サイト)利用はけしからん」という論調があり、ネットのフィルタリング問題を巡って私が担当の課長補佐に就きました。そして08年1月には南場さんに出会い、春田真さん(DeNA前会長)とも丁々発止の議論をし、関係各社の状況も調べていったのです。

 この問題は表現の自由を規制すべきか否かに関わるので、憲法学者の長谷部恭男さん(早稲田大学大学院教授)や堀部政男先生(一橋大学名誉教授)や政治家も関心を持っていました。

 霞が関では規制に懐疑的な省庁と肯定的なところとが分かれ、役所のせめぎ合いも大変でした。さらに各種メディアの業界団体の立場も複雑でしたが、どうにか全体の議論をコーディネートできて着地したのです。ネットは業界の自主規制で運営していくべきで、子供たちも含めてリテラシーを強化すべきだと決着。そこで私の仕事ぶりを見ていた南場さんは、猛烈にアタックしてきました。

しかし、すぐには首を縦に振らなかったのですね。

岡村氏:足掛け7年、誘われました。フィルタリング問題からはもう離れて別の仕事をしていたのですが、ずっと声を掛けていただいては丁重にお断りしていました。私は総務省に21年勤めてきて、役所が好きでたまらなかった。ただ、ある時に違う考え方も浮かんできました。

 役所は組織として強固であるが故に、ポストに就く人材は替えも利きます。それなら、南場さんにこれほど誘ってもらったのだからと気持ちが傾いていきました。

官僚の仕事に誇りを持っていたという岡村氏。南場氏の誘いを7年断り続けたが、民間企業での活躍に魅力を見いだして経営者になった。(写真:遠藤素子)
官僚の仕事に誇りを持っていたという岡村氏。南場氏の誘いを7年断り続けたが、民間企業での活躍に魅力を見いだして経営者になった。(写真:遠藤素子)

 亡くなられた、(南場さんの)夫の紺屋勝成さんにもお声掛けいただきました。その頃、私はミャンマーをはじめ東南アジアの郵便インフラ整備に携わっていました。あるとき週末にミャンマーで仕事し、週明けに一時帰国して水曜にはベトナムを駆け回り、土曜に帰国した途端、南場さんのお宅に呼ばれたこともありました。私のスケジュールの間隙を見つけて、猛攻を続けるということだったのです。ここまで誘っていただいたのなら、新しく民間企業で働く人生も良いかもしれないと思い、転身を決意しました。

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