2021年10月26日、甲子園球場で行われた阪神タイガースと中日ドラゴンズの試合後に、16年の現役生活を終える岩田稔の引退セレモニーが開かれた。新型コロナウイルス禍で入場制限がかかっていたが、1万人の観衆が岩田のプロ野球人生の最後を見届けた。
「僕1人ではここまで長くやっていけるとは思っていませんでした」。セレモニーで感謝の気持ちを述べる岩田の勇姿を、両親や家族とともに目を細めて見つめた人物がいる。
「まさかここまでやるとは……本当にお疲れさま」
心の中でそうつぶやいたのは、岩田の大阪桐蔭高校時代の恩師で、硬式野球部監督を務める西谷浩一だ。今春の第94回選抜高校野球大会(センバツ)も圧倒的な強さで制したのは記憶に新しい。監督として甲子園通算8回制覇は歴代最多記録を誇る。「一番迷惑をかけた生徒」と述懐する岩田は、引退を自ら報告して西谷をスタンドに招いていた。門下生としてあまたのプロ野球選手を輩出してきた名将と岩田。20年以上前のあの日の出来事を思えば、誰が2人のこんな未来を予想できただろうか。

「体調不良を掌握できていなかった」
20年以上前のあの日の出来事を、西谷はまるで昨日の記憶のように鮮明に覚えている。01年1月、大阪桐蔭高校の硬式野球部が新年を迎えて最初の練習を終えた後、西谷は選手を全員集めて当時2年生でエースだった岩田を叱責した。
「エースがこんな練習では勝てないぞ」
冬休みとはいえ、自主トレーニングはしっかりしてほしいと選手に伝えた西谷にとって、正月明けの3000メートル走でチームメートから2周、3周と遅れて走る岩田の姿に我慢がならなかった。同級生には後に埼玉西武ライオンズで活躍する「おかわりくん」ことスラッガーの中村剛也を擁し、1学年下には千葉ロッテマリーンズや阪神タイガースで活躍した西岡剛がいた。1998年に大阪桐蔭の監督に就任して3年という駆け出しの時期だったが、あとはエースが育ってくれれば、監督して初めての甲子園出場も夢ではなかった。
その思いは岩田の背中に大きくのしかかったが、呼応するかのように岩田は急成長を遂げた。「岩田はカーブこそ良かったがコントロールは悪く、入学当時はエースになるとは思わなかった」(西谷)。ただ、2年の途中からメキメキと頭角を現し、気づけばエースに。2年生秋の大阪府大会で優勝し、近畿大会でベスト8に進出した。春の甲子園こそ補欠校となり出場は果たせなかったものの、夏の甲子園に向けて確かな手応えをつかみつつあるさなかで、岩田の走りに「調整不足」を感じたのだ。
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