その後しばらくして、このおばあさんはものを持ち去ることをしなくなった。おそらくご本人の内面では、なにか理由があってものを持っていっていたのだろう。ものを持っていくという行為が何らかの機序で不安を解消していたのだろう。スタッフが理由を探り、理解し、寄り添うことで、異常行動は止まったのだろう。

 さらに認知症が進み、脳の別の部位の萎縮が進行すると、今度は妄想が出てきたりする。表れとしては精神の病に近い。私が遭遇した例では、なぜかテレビに映るアナウンサーの女性に対して、執拗に「このバカ女! バカ女!」と罵声を投げかけるおばあさんがいた。

 こうなると、かかりつけの医師の判断で精神科の投薬を受けることになる。時折、老人施設について「精神科の薬でおとなしくさせて、結果一日中ぼおっとなってしまって、認知症が進行する」というような批判を聞くことがある。が、私がグループホームで体験した限りにおいては、精神的・情緒的な病態が出てきた場合には、精神系の投薬はやむを得ない、むしろ必要なものと考える。罵声ぐらいならまだしも、暴れてスタッフがけがをするということもあり得るのだから。後述するが、母もまた症状の進行とともに妄想が出て、スタッフにけがをさせてしまうということが起きた。

スタッフの助けとなる「家族が書く書類」

 精神的な問題が出ている場合にも、スタッフの側は「この人の内面では何が起きているのか、なにが不安なのか。なにか本人としては合理的な道筋をたどった結果、このような症状が出ているのではないか。とするなら、どのように接すれば、穏やかに過ごせるようになるか」と考え、実際にそのように接する。繰り返すが、プロの仕事という他ない。

 スタッフと入居者との会話の基本となっているのが、入居時に家族が書く書類だ。母がこのグループホームに入居するにあたって書いた書類の中には、母の性格、生育歴に履歴、趣味などを書く欄があった。「なるべく詳細に記入してください。それをとっかかりにして私たちはお母様と会話しますから」と言われたのだが、実際にホームにお世話になって、会話のきっかけが大変重要であることを痛感した。

 ひとこと話をすれば、次のひとことにつなげることができる。つなげることができれば、さらに会話を重ねて、相互の信頼関係を構築することができる。信頼関係ができれば、対話の中で入居者の内側に渦巻く不安を解消していくことが可能になる。

 ただ、それも時代につれて、色々難しい要素が入ってくるようだ。ある日、私はKホーム長が難しい顔をして、考え込んでいるところに行き合わせた。

 「どうしたんですか」という質問に、ホーム長曰く「今度入居する方の書類を読んでいるのですが、この方、スキューバ・ダイビングが趣味だったんだそうですよ」。

 それの何が問題なのか分からない私に向かって、Kさんは続けた。

 「我々スタッフの中にスキューバダイビングの経験者はいないんです。一体どうやって話を合わせていけばいいんでしょうか」

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