医師からの病状の詳しい説明は、入院3日目の6月25日にあった。「かなり認知症が進行していますね」と言われてしまった。何度も説明しても、うっとうしがって点滴を抜いてしまうのだという。母のベッドの足元には、新たに圧力センサーが設置されていた。何か用事があればナースコールを押すように、と説明されたのだが、それだけのことが母の頭には入らない。なにかと起き上がって歩き回ってしまう。その動きをナースステーションで検知するためのセンサーということだった。「譫妄を防ぐために、なるべく来て話をしてください」とも言われた。もとより退院まで毎日通うつもりだ。異論はない。

 脳梗塞が起きたのは脳右半球の運動神経が集まっている場所だった。このため、今後麻痺のような運動障害と、言語障害が出る可能性があるので覚悟しておいてほしいとのこと。現在行っている血栓溶解剤の投与は、少しでも予後を良くするためのものだという。

 母が入院していた1週間、私は毎日自宅→病院→グループホームと三角の移動を続けた。病院に行き、「なんで私ここにいるの?」と繰り返す母をなだめる。売店でお茶とちょっとしたお菓子を買って、つまみつつ母と話をする。合間に看護師さんと話をして、今の病状がどんなものか、母に何が必要かを把握する。そのままグループホームに回って主にKホーム長に現状を報告して、母の現状に関する情報を共有する。入院の後半になると、リハビリが始まり、母が病院のリハビリルームで運動する様子を見学できるようになった。「面倒くさい」「なんでこんなこと」とぶつぶつ言いながらも、母はせっせと身体を動かしていた。

 こういう場合に、バイクが非常に役立つことは強調しておきたい。病院の近くにはショッピングモールがあり、道はいつも混雑している。ルートを選び、渋滞を避けて病院へ、またルートを選んで裏道を使ってグループホームへ、と、バイクのおかげで毎日機動的に移動することができた。入院中、強い雨の降った1日だけ自動車で病院に行ったのだが、渋滞に巻き込まれて、すぐ近くに見える病院にたどり着くまで1時間以上かかってしまった。

 バイクに加えて、毎日通い続けることができたのは、私が会社勤めではなく、自分の時間を自分である程度管理できるフリーランスだからだろう。実際、弟はといえば、間に挟まった日曜日に見舞いに来るのが精いっぱいだった。

 第1回に、母に年30回ほど面会に通ったと書いたが、そこには入院の1週間は含まれていない。病院通いを勘定に入れるなら、面会は年に37回ほどということになる。

母、ホームに戻る

 発症からちょうど1週間後の6月30日、母は退院してグループホームに戻った。梅雨前線の雨が降る中の退院だった。

 医師からは「運動障害、言語障害を覚悟しておいてほしい」と言われていたが、母は驚くべき頑丈さと運の良さを発揮した。何一つとして後遺症は残らなかったのだ。ホームのK医師への紹介状を持ち、普通のタクシーを使って母はホームに戻った。ホームではKホーム長以下スタッフの皆さん一同が、「松浦さんお帰りなさい」と歓迎してくれた。うれしかったのか、母はまんざらでもない表情をしていた。

 脳梗塞を経たことで母が日常的に服用する薬は増えた。新たに血液の凝固を防ぐアスピリンが加わったのである。元気な頃は「薬なんてうかうか使ったら肝心のときに効きが悪くなる」と言って、薬嫌いで通していた母だったのに、歳を取るほどに、避けようもなく日常的に服用する薬は増えていく。

 アスピリンは、この9カ月後に、思わぬ苦痛を母に与えることになるのだが、神ならぬ身の私としては「ああ、薬が1種類増えちゃったなあ。とはいえアスピリンぐらいなら仕方ないか」と嘆きとも諦めともつかぬ感慨に浸るのみであった。

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