2017年3月、「『事実を認めない』から始まった私の介護敗戦」から連載を開始した、松浦晋也さんの「介護生活敗戦記」は、科学ジャーナリストとして自らを見る冷徹な視点から、介護を通した母親との壮絶な体験を、ペーソスあふれる文章で描き、絶大な支持をいただきました。コメント欄に胸を打つ投稿が相次いだのも記憶に残るところです。
この連載は『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として単行本・電子書籍となり、介護関連の本としては異例の支持を集めました。22年1月には集英社文庫に収録されております(こちら。文庫版にはジェーン・スーさんとの対談が追加されています)。
そして5年後。前回の最後は、松浦さんのお母様がグループホームに入ったところでしたが、今回はそこから今日まで起こったさまざまな出来事が語られます。
介護施設に入居したことで、母親の介護は終わったのでしょうか。
入居後にお母様、そして松浦さんを待っていたのはどんなことなのか。
ぜひじっくりとお読みください。
(担当編集・Y)
人間、どんな時も新たな状況に慣れていくものだ。認知症を患う母も、私をはじめとした周囲も、さらにはKホーム長以下のホームのスタッフの皆さんも、83歳になる母のグループホームでの新しい生活に慣れていった。
2017年1月末に母が入所し、3月から体力の回復した私が、ホームに通い始めた。4月、5月、6月、と私は母の「退屈だ」「ご飯がまずい」という愚痴を聞いては対応し、スタッフの方達と話をし、Kホーム長に相談し、母の過ごす環境を整えてきた。持ち込んだサイドボードの上には、亡父の写真の入った写真立てを置いた。その横で徐々に本が増えていく。愛用していたコスメボックスは封を切った使いかけの化粧品で一杯になっていたので、ひと通り整理した上で、「必要に応じて使ってください」とスタッフの方に渡す。CDラジオプレーヤーを持ち込んで、気に入っていたCDが聴けるようにする――。
引っ越し直後の段ボール箱が散らかった室内が、数カ月でそれなりに快適な生活空間に変わるように、ホームの西ユニットにある母の個室は、少しずつ「母のいる場所」としての佇まいを成していった。
それもこれも、母がグループホームで今後それなりの期間を過ごすことを前提としていた。それが、入居5カ月目で覆りそうになるとは思ってもいなかった。
ろれつが回らなくなった母、しかし「医者はいや」と
2017年6月23日の午後6時すぎのことだった。東京で一仕事終えて、さあ帰宅するかと JR東京駅にいた私の携帯電話にグループホームから入電した。「夕方の入浴の後、急にお母様のろれつが回らなくなりました。かかりつけのK先生は緊急搬送をするようにと言っています。どうしましょうか」
え? 家族の承諾が必要なのか、というのが最初の印象だった。急にろれつが回らなくなるといえば、まず脳梗塞を疑わねばならない。となれば処置は時間との勝負だ。脳梗塞は血栓を融解する薬を早期に投与できれば、後遺症なしで回復できる。ここは有無を言わさず病院に担ぎ込む局面ではないのか。
ともあれ電話の向こうでは私の判断を待っている。「もちろん救急搬送します」と答えつつ、どこの病院がいいだろうか、と頭を巡らす。ホームから一番近いのは、認知症で最初に母がかかった総合病院だ。あそこならカルテも診察カードもある。搬送の第一候補として総合病院を指示し、自分はその足で病院に向かった。
病院に着くと、母は救急外来のベッドで、ホームのスタッフに付き添われて寝ていた。まずスタッフから詳しい話を聞く。
母は午後5時ごろに風呂に入ったが、出たところでろれつが回らなくなった。スタッフはすぐに、かかりつけのK医師に電話で相談。K医師は脳梗塞を疑い緊急搬送を指示した。
ところが、電話中に母のろれつが回復してしまったのである。すると母は、「医者はいやだ」とごねたとのこと――そうだった。この人は体が丈夫なことが自慢で、医者に行くのは嫌いなタイプだったっけ。
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