そこで全国の篤農家の方々から果物を箱買いし、そのままグループホームに「皆さんで食べて下さい」と差し入れする。数が多いので、18人の入居者全員に回り、さらに食事を共にするスタッフも食べることができる。

 これはかなりの当たりだった。なによりも日々「まずい」と主張していた母の自尊心が満足した。まだ母は、「どこの誰さんが、どんな作物を作っている」ということを覚えていた。どんと箱で差し入れすると、母はスタッフに向かって自慢する。「これは、どこそこの誰さんが作ったおいしーい果物なのよ」と。もちろんスタッフは「そうですか、すごいですねえ」と聞いてくれる。

 おそらくは「まずい」という主張の底に、多分に「自分を認めてほしい」という欲求があったのだろう――そう私は想像した。

 もちろんどれもこれも根本的な解決策ではない。根本的に解決したければ、専任のシェフがいるような高級老人ホームに入居するしかなかろう。そんな資金は、母にも我々にもない。

 それどころか、認知症は時として味覚の変化も伴うものだから、どんなに頑張っても母の「まずーい」は止まらないのかもしれない。

 その時だけしのげればいいのだ――そう考えることにした。一時しのぎでも一息はつける。一息つければ、次に問題が押し寄せてきた時にも対処する余裕を持てる。これを繰り返していくしかないのである。

おいしいものは記憶とともに

 自分の幼児期を思い出すと、母は決して食道楽でも料理上手でもなかった。幼稚園の時のお弁当は、いつもおかずが鶏の唐揚げと甘く味付けした卵焼きだけだった。私が極度の偏食で野菜類がほとんど食べられなかったということもあるのだが、若い頃の母は、自ら美味を求めるタイプではなかった。

 味覚には大変残酷な性質がある。食べたことがない美味は求めようがないのだ。大抵のおいしいものには相応の出費が伴う。だから過去の経験に基づく「何々を食べたい」という自分の意志とは別に、いまだ食べたことがない新たなおいしいものを食べる機会がないと、一生本当においしいものとは無縁ということもあり得る。美食には良い導師が必須なのだ。

 確かに母にはおいしいものを食べる機会があった。そこには私の父方の祖母の弟、つまり大叔父が関係してくる。

 大叔父は、浄瑠璃、能、狂言、歌舞伎など、日本の美に取り憑かれ、一部では“婆娑羅(ばさら)”ともあだ名された異能の人であった。幼時より古美術に常ならぬ興味を示し、縁あって少年の頃から作家・谷崎潤一郎の薫陶を受けた。長じては商才を発揮して財を成し、作った財産のありったけを日本の美に注ぎ込み、ついに破産して全てを失うも、そこから再起した。

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