2017年3月、「『事実を認めない』から始まった私の介護敗戦」から連載を開始した、松浦晋也さんの「介護生活敗戦記」は、科学ジャーナリストとして自らを見る冷徹な視点から、介護を通した母親との壮絶な体験を、ペーソスあふれる文章で描き、絶大な支持をいただきました。コメント欄に胸を打つ投稿が相次いだのも記憶に残るところです。

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 この連載は『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として単行本・電子書籍となり、介護関連の本としては異例の支持を集めました。22年1月には集英社文庫に収録されております(こちら。文庫版にはジェーン・スーさんとの対談が追加されています)。

 そして5年後。前回の最後は、松浦さんのお母様がグループホームに入ったところでしたが、今回はそこから今日まで起こったさまざまな出来事が語られます。

 介護施設に入居したことで、母親の介護は終わったのでしょうか。
 入居後にお母様、そして松浦さんを待っていたのはどんなことなのか。
 ぜひじっくりとお読みください。

(担当編集・Y)

 「退屈だ」、そして「ごはんがおいしくない」――グループホームに入居した当初、母の文句はこの2つに集中した。

 「退屈だ」には本を持ってくることで対処した。ひょっとしたら、母は入居がそのものが不満で、不満のはけ口として私に「退屈だ」と言っているのかもしれない。それでも差し入れる本を読むことで、いくらかは「退屈だ」という言葉も減った。

 が、「おいしくない」は、どうすべきか。食事が口に合わないといっても、これはなかなか解決が難しい。

 グループホームの食事は、当番のスタッフが交代で調理している。昼間、入居者が過ごすダイニング兼リビングには、しっかりしたキッチンが併設してあり、調理しながら入居者と会話をすることもできる。

 調理そのものも、入居者が参加する作業の一つになっていて、スタッフはひんぱんに「○○さーん、ちょっとこのタマネギ切ってくれますか」というような声かけをする。Kホーム長の言う「誰かの役に立っているという実感を持ってもらう」というやり方だ。

 母も時折声をかけられて、野菜を切ったり、茹で物の火加減を見たりしているという。「これは、そうじゃなくて、こうやるの」などと威張って教えたりもしているとのこと。それを「松浦さんよく知っていますねえ」と持ち上げるのもまた、スタッフの業務の一環である。キッチンに立つのはスタッフだけではない。時にはKホーム長自らがキッチンに立つこともある。

「まずい」と言われるのは辛いもの

 スタッフが交代でキッチンに立つというところに、どうやら問題の本質があるらしい――観察の末、そう私は判断した。スタッフは調理のプロではない。家庭での調理経験が豊富なスタッフもいるが、この仕事に就くまでどの程度の経験があったか分からないスタッフもいる。そんなメンバー9人がシフトを組んで調理を担当するのだから、十人十色ならぬ九人九色で、毎食異なる味付けの料理を食べることになる。なかには「まずい」と言いたくなることがあるかもしれない。

 とはいえ、家族からスタッフに文句を言うわけにもいかない。今の母は認知症で自制心を失っている。スタッフからは、「お母様から“ごはんがおいしくない”って言われるんですよー」と度々聞かされた。これが家族向けに表現をやわらげた言い方であろうことは、2年半自宅介護してきた自分には分かる。間違いなく母は、「なにこれ、まずーい」とか「おいしくなーい」と叫ぶとかの、ずっと強い言葉でまずいと言っている。自分が調理したごはんの現物を前にして、母から直接「まずいーっ」と言われると、いくら仕事だからと割り切ろうとしても精神的にこたえるだろう。

 その上で、家族が「……などと本人が申しているので、なにとぞ食事の質を上げるように努力願えませんでしょうか」などと追い打ちをかけるわけにはいかない。

 さあ、どうしたものか――。

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