何も考えない場所だということですね。

浅田氏:それが正しい入り方なんじゃないかな。僕だって入ってからしばらくはいろいろ考えますよ。小説のネタを考えたり、頭の中で文章を組み立てたり。自然とそういう癖は付いているから。でもサウナの中でそれができるのはせいぜい5分でしょう。だんだんと苦しくなってくる。

快感から無心に、そして無我へ

やはり浅田さんほど長くサウナに入っていても苦しいは苦しいものなんですね。

浅田氏:それはもう苦しいですよ。自虐的な行為で、無心になってくる。その無心が10分過ぎると、無我に変わる。無心は物を考えないんだけど、無我は自分もいなくなる感覚。「ととのう」というのはこれじゃないかな。無我の境地に達して、そこでどのくらいぼんやりとしていられるか。とはいえ、最初の5分は快感状態で、このときはいろいろなものが頭の中からはがれ落ちてゆくから、かわりにアイデアがどんどんと浮かんでくる。

 でもそれは物を考える、ということでもない。体がリラックスした状態で何か「もらう」感じがするんですよ。降ってくる物を受け止める感じがする。リラックス状態じゃないと、小説って思いつかないんです。それは風呂でも、寝ているときでもいい。これは小説に限らず、モノをつくる人って皆そうだと思うけど、アイデアを考えるときにアトリエなり、自分の机の上で頭をかきむしる人はいないと思うよ。

少なくとも、浅田さんにとってはサウナがその最適な場所だった。

浅田氏:しかもその後無心になって、無我の境地になれる。もう小説はできあがったも同然です。だから多いときは毎日行っていました。夜中の3時までサウナにこもるなんてことも。忙しいときほど通っていましたね。

 小説って時間があれば書けるというものじゃないからね。表現活動をできる状態になっていなかったら、そういう状態に持っていくための時間が必要になる。それが僕にとってはサウナだった。

私は筆が進むときほどいい原稿を書けているという感覚があるのですが、それは浅田さんも同じですか。

浅田氏:それは皆そうだと思いますけど、ただ気を付けなきゃいけないのはそういう状態になると自分のテンションが上がっちゃうから、筆が滑っていくことがありますよね。過剰な表現を使ってしまうとか、何か書きすぎちゃう感じ。ハイテンションなときは自分で時計を見てやめるようにしています。あとは家族がタオルを投げてくれる。見ていて分かるんでしょうね。

しかしサウナって、先ほど浅田さんもおっしゃっていた通り自虐的で、何なら無目的じゃないですか。そんな行為に人々が夢中になる理由はどこにあるんでしょうか。

浅田氏:自分の体をナチュラルにしようという気持ちじゃないかな。だから地方都市にはサウナが少ないのだろうと思う。自然がない都会ほどサウナって多いじゃないですか。本来、人間は自然の中で暮らすべきなのに、不自然なところでの生活を強いられている。自然回帰する場所が必要なんじゃないかということですね。サウナは苦しくもあるけど、苦痛と快感、楽しさは同居するもの。苦痛を感ずるというのは自然と共にあるということでもあるわけです。今は満たされすぎているのかもしれない。

 かつては街の純喫茶が一種の安息の場だったんだけど、それもなくなっているでしょう。カフェチェーン店に行って若いやつらが隣でカタカタとキーボードを打っているところで安息も何もあったものじゃない。安息、すなわち自然回帰する場所としてサウナにどうしても入りたくなる。

日本のサウナ文化は独特ですよね。

浅田氏:日本はもともと、人口が都会密集型。サウナ文化が定着している諸外国はそれほどではないですよね。例えばフィンランドはサウナに入ること自体が自然な行動で日常に溶け込んでいる。日本のように、さあサウナに行くぞという感じはどこの国に行ってもないですよ。意識せずに、自然を求めにサウナへ行っているのが日本なんでしょう。

 裸になるということ自体が自然に帰るということでもある。劇作家、モリエールはかつて「自然は善美と調和を生み、不自然はあらゆる破綻を生じせしめる」と言った。これは僕の人生の金言になっている。モリエールはルイ14世をパトロンにしていた。この言葉は何でも自然を支配して、ベルサイユ宮殿のようなものを造り上げる、ルイ14世の美学に対する批判だと思うんだよ。

 人間は本来自然と共にあるべきだし、善や美はそこに生まれてくる。そこからはみ出して不自然の中に生きれば破綻すると思うんだよ。都会に人間が集中し、田舎に行くと過疎化が進んでいるという極端な今の世の中は、国家が本当に破綻する兆候じゃないかと思う。

そう考えると、サウナブームはその危険な兆候に人々が気付き始めた結果、とも言えるわけですね。

次ページ サウナは思索の時間を生む