信仰ゆえの寛大さにも見える。が、同時に、社長の座を射止めたものの、「父と父の秘書」以外に味方のなかった飯島にとって、政治的敗者たちの「罪」を許して取り込まなければ会社を動かすことができなかったのではないか、とも見える。いつ敗者たちが「一寸の虫にも五分の魂」で牙をむくか分からないのだから。病魔に苦しむ実父を追い込んだ政敵たちを、理性では許すことはできない。だが、「理性を超えた者の声に従った」とすれば、許すことができたのではないか。
敗者には寛容でも、敵にはひるまない。飯島はよく「エリシャの信仰」を語る。
朝起きると、敵が町を包囲している。若者は慌てるが、預言者・エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言って主に祈る。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」。若者が目を見開いて見渡すと、火の馬と戦車が敵軍をさらに取り巻いて山に満ちていた。
目に見える敵に囲まれていても、見えない者には見えない「神の軍」が自らとともにある。だから、目に見える現実の敵を恐れない、というわけだ。
社長就任後、飯島は経営方針の対立で、1人の役員を解任しようと試みた。しかし解任される役員は巻き返し工作を図り、役員会では反対多数で否決されてしまう。ところが飯島は譲らない。「私の意見が聞けないなら社長を辞めさせてくれ」と言い張って、結局、思い通りに解任してしまった。飯島はこう述懐している。
「罵られたり、悪口雑言を言われたりと、厳しいように思うかもしれませんが、心の中に主イエス・キリストにある聖霊の守りがあって全然動揺しない」
「信仰」を後ろ盾に一歩も引かない。社内の「敵」に対するこうした姿勢は、PB(プライベートブランド)や物流共同化などでメーカーの利益の源泉を奪おうとする小売りや同業他社など、社外の「敵」に対しても同じだった。
一方で飯島は、自ら主宰する聖書の勉強会では、経営者としての経験を交えて語る。「(牧師の)先生は仕事の実態というのをあまりよく分かっていらっしゃらない」。
飯島は、理性が支配すべき経営の場においては信仰で語ろうとし、信仰が支配すべき教会では経営の言葉で語ろうとする。それぞれの場において言葉が異質であるがゆえに、その響きは反論しがたい強さを宿す。
飯島が「なぜ」信仰を持つに至ったのか。尋ねたが、明確な答えは返ってこなかった。飯島本人にも分からないかもしれない。ただ、飯島は37歳の若さで、四面楚歌の中、巨大企業の総帥の座に就かざるを得なかった。孤独な若き経営者にとって、組織を統率し、自らの意思を貫くために、信仰という「異質な言葉」が強い武器になったことは間違いない。
山崎製パンの中堅社員には「敬虔に過ぎるクリスチャンが経営に宗教を取り入れて混同している」と漏らす者もいる。だが、経営と宗教を混同する熱烈な信者と言うほどに、飯島は単純ではない。
その証拠に、飯島は2つの鞄を使い分けている。一方は、キリスト者としての飯島が手にする鞄、もう一方は、企業経営者としての飯島が手にする鞄。多少、越境させることはあっても、決して混用することはない。
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