そもそもこの教会の地は、飯島の実父であり山崎製パンの創業者でもある故・飯島藤十郎の生家があった土地の一部が割かれたもの。鉄筋コンクリート造りの建物とともに、藤十郎の死後、その妻、飯島の実母でもある飯島和によって教団に寄付されている。

 その因縁は藤十郎の晩年にさかのぼる。

 89年、和は夢を見た。自宅の屋根に立って、療養中のはずの夫・藤十郎が叫んでいる。何とか手を届かせようとするが届かない。その声はこう聞こえた。

 「杉の皮で葺く、真っ赤な血で葺く」

 その話を母・和から聞いた飯島は、藤十郎が夢に立って伝えたいと願ったメッセージをこう解いた。「会社には過ちを犯した者がたくさんいる。自宅まで来れば、平安と喜びを分かち与え、過ちを無かったことにしよう。どうしても落ちない罪のある者は、自分の血で洗って真っ白にしてあげよう」。藤十郎はその年の12月に亡くなった。その“遺志”を継いだ飯島母子は、東京・下落合にあったある教会に土地と建物の寄付を申し出た。

 飯島が足しげく通うのは、そこが一族のルーツの地に実父の遺産で建てられた教会だったからだ。飯島はこの教会の役員に名を連ねるほどに、入れ込んでいる。

 飯島は、なぜ「神の子」になったのか。

信仰は理性を超える

 飯島親子3人がプロテスタント教会で洗礼を受けたのは73年7月。当時、山崎製パンの経営の主導権を巡って、創業者の藤十郎と、その弟・一郎が骨肉の争いを演じていた。30代前半だった飯島は、取締役として劣勢だった父親を支え、四面楚歌の社内を立ち回った。

 取引先や金融機関まで巻き込んだ騒動が収束したのが79年。一郎は子会社・ヤマザキナビスコに追われ、藤十郎も退く。その「痛み分け」の結果、37歳という若さの飯島に、社長の座が突如転がり込んできた。

 頼りの父は病を得て力を失い、誰1人として共闘する者がない社内。社長の肩書を得てもそれは変わらなかったはずだ。その重圧は想像に難くない。だが、飯島は聖書の勉強会で当時を振り返ってこう発言している。

 「父と父の秘書だけが味方で、本社内ではあとはみんな反対側でしたので、非常に緊張し、戦っているような感じでした。しかし…叔父(一郎)も70%は水でできていますし、私も70%は水でできています。…お互いに対立していながらも一つの共通のもの、神の愛というものを持っているように感じたのです。…叔父の呼吸の中に含まれている水を私も吸っていることもあると感じたとき、対立していることがばからしくなりました」

自らとともに「神の軍」がある

 眼前で繰り広げられる血族同士の罵り合いを前に、それぞれが「70%が水」という理由で「対立がばからしくなる」というのは、理性ではなく、信仰というものの働きによるとしか言いようがない。

 飯島が経営の主導権を握ったことを藤十郎や周辺は喜んだ。だが、飯島の脳裏には聖書の『ヤコブの手紙』4章の一節が浮かんだという。

 「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみ、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます」

 飯島は、周囲が勝利の美酒に酔う中で、独り「どうすれば苦しみ、悲しめるか」を考えた。

 「身内に囲まれていればどこを探したって悲しみのかけらもない。だけど、それはぱたーんと垣根を倒して、会社全体を見ると、(社内政治の)戦いに破れた連中がみんな傷ついていた。それを追い込んでいったら、また一寸の虫にも五分の魂とやり出しかねない。だからこの人たちを助けてやろうと。その人たちの悲しみが自分の悲しみとしたら、一遍に喜びが飛んでいっちゃった」