「人生の敗者にならない」と誓う

 再建のために希望退職を含む大規模なリストラを実施したものの、2000年3月期決算で57億円の最終赤字を計上し、無配に転落した。この責任を取る形で、社長を今度は次男の慶太(現タカラトミー副社長)に譲り、自らは取締役を退任した。75歳だった。

 混迷の最中に本誌の「敗軍の将、兵を語る」の取材を受けたことを佐藤は10年後の今でも鮮明に覚えている。

 「混乱を招いた責任を問われて『敗軍の将』にされた。最終赤字に転落したので、確かに経営者としては敗者なのかもしれないが、人生の敗者にまでなったわけではない。そのことを引退後の人生で証明しなければならないと強く誓った」(佐藤)

 実際、くすぶる思いがあったのだろう。いったんは趣味のカメラやゴルフ、海外旅行を楽しみながら、余生を悠々自適に過ごそうとした。だが半年も続かなかった。

 「引退する前はずっと忙しく働いていたので、趣味に明け暮れる日々はさぞかし楽しいだろうと思っていたが、そうではないことに気づいた」と佐藤は苦笑する。

 余生を意義あるものにして、人生の最後は勝者で終わるために、新たな生きがいを見つけなければならない。こう思い立った佐藤は、まず自分の半生を振り返った。そして次のような結論にたどり着いたという。「自分が本当にやりたかったことは、実はおもちゃではなかった」と。

 たまたま作っただっこちゃんがヒットし、玩具の世界に足を踏み入れた。そして、そのまま玩具メーカーの道を突き進んだ。しかし、それは半ば成り行き任せのことであり、自らが主体的に選び取ったものとは言い難い。思いを深めた佐藤の脳裏によみがえったもの。それは戦争の記憶だった。

 太平洋戦争の終戦間際の1945年4月。山形大学工学部の前身である米沢工業専門学校に入学していた佐藤は、学徒動員で福島県郡山市の化学工場で働く。この時に米軍の空襲に遭った。逃げ込んだ防空壕を爆弾が直撃。壕内にいた学友や女学生らの大半が死亡する中、佐藤は九死に一生を得た。

 「亡くなった仲間のためにも、戦争が終結したら、日本民族の平和と繁栄に貢献したい」。空襲後に病院で療養生活を送る中、心に刻んだ誓い。それが50年余りの歳月を経て、再び佐藤の心中に広がった。

 そこにもう1つの思いが重なった。自分は玩具メーカーのトップとしてヒット商品を開発し、会社の経営も切り盛りしてきた。その一方で、ずっと分からなかったことがあった。それは「人の育て方」だった。

 「商品開発や会社の経営に奔走する中、社員はおろか、自分自身の人生のマネジメントもできていなかった」と佐藤。そこには恐らく、自らの後継者をきちんと育てることができなかった悔恨もあるのだろう。

指導教官の一言に発奮して入学

 現役の経営者時代には分からなかった人材育成の方法を確立し、それによって実際に優れた人材を育てることができれば、「日本民族の平和と繁栄に貢献する」というかつての誓いも果たすことができるはずだ。

 こう考えた佐藤は2002年、NPO法人(特定非営利活動法人)の「ライフマネジメントセンター」を創設。ここを拠点にして「ライフマネジメント=人生経営」の手法を模索し始めた。

 その中で佐藤が傾倒していったのは哲学の世界だった。「人間の生き方や成長について探究しようとすれば、哲学を避けて通るわけにはいかない」。そう佐藤は語る。

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